




【日本の西洋建築のいろいろ】
全国各地に点在する日本の西洋建築の歴史は、1853年(嘉永6年)のペリー来航による開国を契機に、日本へ異国の文化や技術が一気に流れ込む中で始まりました。
アメリカの特使マシュー・C・ペリー提督は艦隊を江戸近郊の浦賀湾に来航させ、200年以上にわたる日本の鎖国に終止符を打ちます。1859年(安政6年)に横浜が開港し外国人居留地が設けられ、西洋建築が建設されると、日本の大工たちがそれらを見よう見まねで再現した「擬洋風建築」という様式が大衆の反響を呼び、全国各地で建設されました。外見は洋風ですが、構造は日本伝統の和小屋組、素材は木・漆喰・瓦で和風なのが特徴。1876年(明治9年)、文明開化の真っ只中に完成した松本市の「旧開智学校」は、擬洋風建築の傑作として知られています。2019年に国宝に指定されました。
明治時代、擬洋風建築は西洋の知識が日本に根付くまでの橋渡し役として大きな役割を果たしましたが、やがて西洋から建築技術の専門家が招かれ、本格的な西洋建築の教育が始まると、少しずつ衰退していきます。東京の帝国大学工部大学校の教授であったイギリス人建築家ジョサイア・コンドルや、彼の教え子は、多くの代表的な西洋建築を残しました。ジョサイア・コンドルは「鹿鳴館」や「旧岩崎邸庭園」を、教え子である辰野金吾は「東京駅(丸の内駅舎)」や「日本銀行本店(旧本館)」を、片山東熊は「京都国立博物館」を設計しました。
大正時代の建築は、上手に和洋折衷を表現しながら、耐震・耐火性に優れた鉄筋コンクリートなど近代的な要素も取り入れていきます。たとえば、1915年(大正4年)に建てられた下関市の「秋田商会ビル」は、1階は洋風建築、2・3階は書院造の和風建築、そして鉄筋コンクリート構造で、「大正モダン」建築の先駆けとも言えるビルです。総煉瓦造りの設計は徐々に鉄骨造や鉄筋コンクリート造に取って代わられ、この変化は1923年(大正12年)の関東大震災にて煉瓦造りの建物が地震に弱いことが実証されたことにより加速しました。また、1920年(大正9年)には、日本初の近代建築運動である「分離派建築会」が登場し、西洋建築の様式を忠実に再現する時代から、日本独自の「近代建築」を目指す潮流が生まれ、その精神は、のちの「モダニズム建築」へと受け継がれていきます。
昭和初期には、北九州市の「門司郵船ビル」や「旧大連航路上屋」など、アール・デコなど当時の西洋芸術運動の影響が建築にも現れ、下関市の「関門ビル」や「門司区役所」に見られるように、より独創的で芸術性の高い建築へと発展しました。第二次世界大戦に至るころには、建築界には伝統主義への回帰が見られ、「帝冠様式」と呼ばれる様式が官庁建築を中心に採用されました。これは鉄筋コンクリートなど近代的な構造をベースに、入母屋造りなど日本の伝統的な意匠を取り入れた折衷様式であり、「国会議事堂」や「東京帝室博物館(現・東京国立博物館本館)」、「大礼記念京都美術館(現・京都市京セラ美術館)」などが代表例です。
第二次世界大戦後の復興期には、耐震性・耐火性・工期の短さなどを重視した建築が求められるようになります。こうした要請に応える形で日本でもル・コルビュジエらに代表される「モダニズム建築」が導入され、装飾を排した機能的で合理的な建築が都市に広がっていきました。前川國男や丹下健三らの建築家がその中心を担い、日本の西洋建築はこうして「模倣」から「創造」の時代へと移行していきました。
西洋建築がもたらした新しい技術と美意識は、日本の伝統文化と融合し、時代に合わせて変化を遂げながら独自の建築様式を生み出しました。なくなってしまった建築も多くありますが、今なおさまざまな時代に建てられた異なる様式の西洋建築が全国各地に息づいています。日常の景色に溶け込んでいる西洋建築に一人一人が少しだけ想いを馳せてみることが、次の時代へと受け継いでいく一歩となるかもしれません。
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参考資料
https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/en/R5-00690.html
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO47438790Z11C12A0000000/
https://www.go-nagano.net/tradition-and-culture/id17659
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%86%A0%E6%A7%98%E5%BC%8F