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【博多】

島国である日本では、古代から大陸との交流の拠点として発展した国際港が、貿易や外交の玄関口として非常に重要な役割を果たしてきました。その中でも、歴史的にも特に影響力が大きい港として、飛鳥時代以前~奈良時代から存在し、『万葉集』や『古今和歌集』にも詠まれている日本最古級の名港、「難波津(なにわづ)」、そして奈良時代から平安時代に遣唐使船の寄港地として中国や朝鮮と交流し、太宰府の外港として栄え、貿易と軍事の両面で活躍した「博多津(はかたのつ)」があります。「津」とは「水」と「聿(ふで)」から成り、もともとは水辺での交通の拠点を意味していた漢字です。日本語でも川や海の人や物の行き来をする場所、すなわち「港」を意味する言葉として古くから使われてきました。今回は、「博多津」であった博多のまちが、古代から近世まで、大陸との交流や貿易を通じてどのように発展し、日本有数の港町の一つとなったかを読み解いてみたいと思います。

歴史上、「博多」の文字が文献に登場したのは、平安時代初期(759年)に編纂された勅撰史書である『続日本紀(しょくにほんぎ)』において、「博多大津」という名称で記録されていたのが最初です。当時の博多は九州の統一や、諸外国との交流を行う窓口として重要な役割を担い、8世紀ごろになると、遣隋使・遣唐使が博多の港から旅立ち、同時に海外からも要人の訪れと共に書物や薬が運び込まれました。交易の要所だった博多では、飛鳥・平安・奈良時代を通じて、鴻臚館(こうろかん)と呼ばれる外交施設が今の福岡城跡に設けられ、中国大陸や朝鮮半島からの使節団を迎える迎賓館として、また、遣唐使や遣新羅使の宿泊所としても使用されていました。このような外交施設は、平安京のあった京都、難波津があった大阪にも設置されましたが、現在遺跡が確認され、国指定の史跡となっているのはこの鴻臚館のみになります。現在も発掘調査が続けられている鴻臚館跡からは、現在の中国の河北省、浙江省、湖南省周辺で生産された陶磁器や、朝鮮半島の新羅、高麗産の陶器、西アジアのイスラム系陶器やペルシャ系ガラス器など、国際色豊かな遺物が出土しており、博多が重要な国際的な交易拠点であったことが分かります。

平安時代末期になると大宰府政庁長官級の官位を得た平清盛が博多を支配し、博多商人を通じて日宋貿易を推し進めることで、大宰府・博多と日宋貿易の本格的な掌握に乗り出し、博多は経済の一大拠点として大きな繁栄期を迎えます。特に、日宋貿易において当時の日本経済に多大な影響を与えたのが、南宋から輸入された「宋銭」でした。宋銭は、九州の武士の手を経て、京都に入り、やがて全国へと広がりを見せるのですが、平氏が政権を支配した時期を中心に、12世紀後半からわずか50年という短い期間で、西日本はどこでも貨幣が通用する世界へと変貌を遂げたのです。また、このころ、12世紀から13世紀にかけて、お茶や饅頭、うどんといった現代まで続く食文化が博多に伝来します。日本最初の禅寺である博多聖福寺を開いた栄西(ようさい)禅師は、南宋で禅宗を学び、その教えを広めるべく1195年に今の博多区に聖福寺を創始しました。栄西禅師が禅の教えと共に日本に伝えたのが、南宋で厳しい修行をする禅宗の僧たちに重宝されていた、お茶を飲む「喫茶」の習慣でした。栄西禅師は中国からお茶の木を持ち帰り、聖福寺の境内や脊振山に植えたと伝えられています。

博多の歴史の中で、最もインパクトのある出来事といえば、鎌倉時代中期の1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)に起こったモンゴル帝国(元朝)による二度の元寇ではないでしょうか。文永の役では博多のまちも被害を受け、貿易船の往来は一時途絶えることになりましたが、政治的には緊張状態でありながらも、経済的には交流を保ち日元貿易が復活しました。室町時代には交通や経済がさらに発展し、続く戦国時代には戦をきっかけに商工業が活性化。明などとの貿易が拡大するにつれ、博多には「豪商」と呼ばれる大商人が姿を現します。しかし、明と朝鮮を中心とした交易で栄え、巨万の富が集中した博多のまちは、当然のように戦国武将たちの標的となり、幾度となく戦乱に飲み込まれることとなりました。まちが焦土と化し、多くの人々が戦を避けて周辺地域へと避難していく中、荒廃した博多の復興に大きく寄与したのが豊臣秀吉です。博多商人の協力を得て、秀吉が行った「太閤町割り」と呼ばれる都市計画により、碁盤の目のような美しい街並みが復興されました。江戸時代になると鎖国によって海外貿易が禁止される一方、日本国内では海上輸送が大きく進歩します。江戸時代に福岡藩の開運事業の担い手となった五カ浦廻船(ごかうらかいせん)は、博多湾内にある5つの浦の船乗りたちが、弁才船という巨大な船に乗り込み、日本中を舞台に年貢米や木材などを運んで盛んに活躍していました。

博多のまちを歩いていると、これまでの長い歴史に育まれ、現代にも伝わるさまざまな文化に当然のように出合うことができます。今も博多で愛されるうどんという食文化が、その昔大陸から伝来したことを知れば、その味にも歴史の長さや世界の広がりを感じられますし、太閤町割りによって整備された街並みを歩けば、豊臣秀吉がいかに博多のまちの復興に尽力したかを実感することができます。聖福寺の広い境内で、たくさんの美しい樹木が生き生きと立ち並び、堂々と配置された山門や仏殿を見ながら歩きながら、一つの文化や様式が海を越え、人々の心と行動に浸透し、そこから長い時を経て残るということが、どんなにすばらしく価値のあることかをひしひしと感じました。世界に開かれ、アジアの国とのつながりと共に発展してきた博多のまちを訪れたら、ぜひその奥深さを体感してみてください。

若松ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/wakamatsu.html

参考資料
https://www.city.fukuoka.lg.jp/kowan/somu/hakata-port/port-history.html 
https://hakatanomiryoku.com/column
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80
https://fukuokajyo.com/kourokan/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AE%8B%E8%B2%BF%E6%98%93
https://www.fukuoka-now.com/ja/shofukuji-japans-first-zen-temple-and-the-origin-of-tea-culture/