








【近江大津宮へ】
小説家であり、優れた文明批評家でもあった司馬遼太郎が、紀行文『街道をゆく』の25年にも及ぶ連載の始まりの地として選んだのは、京都でも奈良でもなく近江(滋賀県)でした。それは、彼が近江という土地柄をこよなく愛しており、歴史的にも非常に重要な場所だと考えていたからにほかなりません。「『近江』というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである」。そんなロマンティックな言葉と共に、司馬遼太郎の筆は古代~現代を自由自在に行き来します。今回は彼の視点を手がかりに飛鳥時代の近江へ旅してみたいと思います。飛鳥時代の舞台といえば奈良なのに、なぜ近江なのか?それは、わずかな期間、大津に都が置かれたことがあったからです。
京都からバイクで山中越を抜けると20分くらいで琵琶湖が眼下に広がります。近江神宮の前を過ぎて右に折れ、すぐの橋を渡ると錦織という住宅街に出ます。目立たないのでうっかりしていると見落としてしまいそうですが、この家々の間に、飛鳥時代の遺構、大津宮の跡といわれる錦織遺跡が点在しています。
大津に都が開かれたのは今から1350年以上も前の第38代天智天皇の時代のこと。舒明天皇と、2度にわたって皇位についた母・寶女王(皇極天皇、斉明天皇)のもとに生まれた天智天皇こと中大兄皇子は、天皇の座につく以前から、中臣鎌足(藤原氏の祖)と共にさまざまな改革を行いました。645年、乙巳(いっし)の変で、権勢を振るっていた豪族・蘇我氏を滅ぼすと、戸籍や土地の管理、税制の整備を行い、中央集権化を強力に推し進めます。前代の権力の象徴とも言える墳墓形式を改め、身分ごとに墓の規模などを細かく規定し、殉死を禁止、天皇陵の造営に費やす時間の制限を行うなど、葬儀の合理化・簡素化を行いました。これを薄葬令といい、古墳時代という一つの時代に実質的な終焉をもたらすことになります。
短期間になされたこれらの大改革が、かの有名な「大化の改新」です。ところで、「大化」というのは、乙巳(いっし)の変後に定められた645年から650年の期間を示す日本で初めての元号です。中国王朝に倣ったこの元号の制定について、司馬遼太郎は、「日本もこれを創始することによって、中大兄皇子は対外的にも対内的にも独立帝国であることを宣言した」と述べ、これを「日本国家の事実上の成立」として、この国の歴史における重要なターニングポイントであったと示唆しています。
司馬遼太郎が、人々が「国としての日本」を意識する契機となったと考えるもう一つの出来事が、663年に朝鮮半島で起こった「白村江(現・錦江河口付近)の戦い」です。唐と新羅の連合軍に敗れて滅びた百済の遺臣からの要請を受け、中大兄皇子は百済復興のため、弟の大海人皇子(のちの天武天皇)らと共に援軍を率いて出陣します。が、この戦いで日本は大敗を喫しました。司馬は、日本の民はこの戦によって「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれるようになっているらしい」と自覚することとなり、「小さな氏族の氏人にすぎなかった自分たちが、日本人という抽象グループに属する人間であることに気づかされた」に違いない、と述べています。この敗北によって危機感を募らせた中大兄皇子が、九州に防人を配置するなど、「外国」を意識した防衛政策へと舵を切ったことにも、その衝撃の大きさがうかがわれます。
667年、そうした混乱の中で近江大津宮遷都は行われました。その理由は、奈良の豪族たちとのしがらみを断ち切りたかったためとも、防衛上の配慮からともいわれています。大津への遷都について、中大兄皇子と大海人皇子の兄弟から愛された才色兼備の女性、額田王(ぬかたのおおきみ)は次のような歌を残しました。
「三輪山を然も隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや」(三輪山をそのように隠してしまうのか、せめて雲だけでも心があってほしい、どうか隠さないで)
三輪山とは、古来信仰の対象となってきた奈良の山です。額田王は、巫女的な役割をも担っていたとされる女性であり、この歌には残し置く都の地霊の鎮魂と、新都繁栄の予祝が込められていたともいわれます。しかしながら、天智天皇による急激な改革への抵抗は大きく、大津宮では当初から不審火が絶えないなど、苦難の船出となったようです。遷都後の671年、天智天皇は息子である大友皇子(弘文天皇)に位を譲って崩御しますが、翌672年には弟の大海人皇子が起こした壬申の乱により大友皇子は自害、遷都からわずか5年余りで大津宮は廃都となりました。
強引ともいえる大改革とその反動、白村江の戦いでの大敗、そして新都の崩壊。それらは大きな混乱を引き起こしましたが、その一方で国のかたちは揺らぎつつもしだいに輪郭を現していきました。また、数千ともいわれる百済の遺民を受け入れたことで、さまざまな知識や技術を持った人々が渡来し、文化が混ざり合い、白鳳期と呼ばれる芸術の一時代が花開くこととなります。
「近江の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのに古思ほゆ」(近江の海の夕波千鳥よ、お前が鳴くと、心にさざなみが立つように昔のことが思われる)
のちに柿本人麻呂が、大津宮を偲んで詠んだとされる歌です。それから長い時を経て、大津宮のあった場所さえ分からなくなっていましたが、1974年、錦織遺跡が部分的に発掘され、ここが都であったと考えられるようになりました。その全貌はいまだ明らかになっていませんが、現在も周辺には天智天皇を祀る神社や当時の寺院跡が残り、往時に思いを馳せることができます。
近江大津宮錦織遺跡
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参考資料
『街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか』司馬遼太郎、朝日新聞出版
『街道をゆく 2 韓のくに紀行』司馬遼太郎、朝日新聞出版
https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/071.html
https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=266
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87