【維新の魁・清河八郎】
作家・司馬遼太郎はその代表作である『竜馬がゆく』の中で、「幕末の史劇は、清河八郎が幕をあけ、坂本竜馬が閉じた、といわれる」などと記しました。明治維新を推進した革新的な先駆者として、激動の幕末を駆け抜けた尊皇攘夷派の志士・清河八郎は、どのような人物だったのでしょうか?
清河八郎は、1830年(天保元年)、庄内藩領出羽国田川郡清川村(現・庄内町清川)の造り酒屋の長男として生まれました。幼名は元司、本名を齋藤正明といい、のちに清河塾を開塾する際、故郷を流れる最上川を大河を意味する「河」に変えて、自らを「清河八郎」と称したと伝えられています。そこには生涯を通して持ち続けた、故郷清川への敬慕の念が込められていました。自然豊かな庄内平野の一角に位置し、山形県の母なる川である最上川に臨む集落の清川は、古くから人や物資、文化が行き交い、鉄道の開通により交通の要衛としての役目を終えるまでの間、宿場町として栄えました。
18歳で江戸に出て、江戸古学派の東条塾に入門した元司(八郎)はめきめきと頭角を現し、塾頭に推挙されるも、更なる高みを目指して安積良斎塾へと入塾します。その傍ら、「学問のある者は武術にも優れているべきである」という孔子の言葉に習い、22歳の時に北辰一刀流千葉周作道場「玄武館」に通い始めます。通常、道場には月に6日通うところを、元司は毎月20日から25日通い詰め、平日の2倍は稽古をする寒稽古ともなると1日も欠かさず出席して鍛錬を重ねました。入門から一年目には初目録、そして1860年には北辰一刀流兵法免許を得ます。最終的には武家の最高学府である昌平坂学問所に学び、剣は北辰一刀流を修めた若干25歳の八郎が江戸神田三河町に開いた「清河塾」は、江戸では史上初となる「学問と剣術を一人で教える塾」でした。
1860年(万延元年)、大老・井伊直弼が桜田門外の変に倒れる1カ月前に、八郎は“国を守るためなら虎の尾を踏むことも恐れない”という意味を込めた「虎尾(こび)の会」を結成します。儒学者としての視点からも尊皇攘夷の理念に賛同していた八郎が盟主となり、幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)をはじめとする15名によって結成された会の目的は、「外国人を日本から追い払い、天皇を中心に日本を一つにまとめて事にあたる」というものでした。しかし、翌1861年(文久元年)、八郎は幕府の罠にはまり追われる身となります。これにより、虎尾の会の同志や妻のお蓮、弟の熊三郎らも連座して投獄され、虎尾の会は分散してしまいました。
幕府から逃れた八郎は、九州遊説で薩摩藩の同志を集い、勤皇のもとに挙兵する策を促して回ります。薩摩藩主・島津久光の上洛を倒幕の合図と信じ、全国の尊攘派志士に京都での挙兵を呼びかけますが、久光の本意は公武合体にあり、意見が対立した薩摩藩士同士が衝突した「寺田屋事件」(1862年)によって、その計画は挫折に終わりました。江戸に戻った八郎は、同年11月、山岡鉄舟らを通じて密かに幕府大老である松平春嶽に「①攘夷の断行 ②大赦の発令 ③文武に秀でた者の登用」という「急務三策」と題した建白書を提出します。そして、江戸在住の浪人を京都に集め、将軍・徳川家茂の京都上洛の護衛にあたるという策が幕府に採用されると、将軍警護のための「浪士組」の編成が許可されました。大赦によって、獄中にあった「虎尾の会」の志士たちも赦免され、八郎もその罪を許されることとなります。
清河八郎を語るときによく使われる「回天」という言葉には、「時代の流れを大きく変え、世の中の状況を一新する」という意味があります。1863年(文久3年)、江戸を出発した浪士組が上洛すると、八郎は京都の壬生村・新徳寺の本堂に浪士たちを集め、「われらの目的は将軍警護にあらず。本分は尊皇攘夷にある。天皇のため、日本のために立ち上がるのだ!われらの真の目的は朝廷を擁立し、外国勢力を打ち払うことである。尊皇攘夷の魁となるが本分なり!」と尊皇攘夷論を演説しました。八郎は、幕府の募集に応じて集まった浪士たちを説き伏せ、尊皇攘夷の魁へと転換したのです。しかし、将軍警護を第一にすべきとする近藤勇らとは意見が対立。近藤や芹沢鴨を中心とした13人が浪士組から離れ京都に残留し、のちの「新選組」となりました。八郎は天皇に上表文を提出し、浪士組への勅諚を賜りますが、やがて幕府の命令によって浪士組と共に江戸に戻ることになります。
江戸に帰還した八郎は、幕府の許可を得ずに攘夷として横浜の外国人居留地を焼き討ちしようと計画し、さらに倒幕のための兵を募ろうと画策。しかしこの計画が幕府に密告され、危険人物とみなされた八郎は、佐々木只三郎らに暗殺され、志半ばで34歳の生涯を閉じました。八郎の時世の句となった「魁(さきが)けて またさきがけん 死出の山 迷いはせまじ 皇(すめらぎ)の道」(何度でも何度でも先陣を切って命を懸ける覚悟で、天皇のための大義の道を進むことに迷いはない)には、日本を一つにまとめ、社会を一変させるという使命に命を懸けた、一点の曇りもない潔さが感じられます。八郎の死から4年、薩長同盟が締結され、日本は明治政府のもと改めて開国し、新しい政治体制が構築されました。八郎は後ろ盾のない草奔(そうほん)の志士でしたが、だからこそ束縛されない自由と大胆さがあり、有力な薩摩藩士や幕臣ともかかわりながら、回天の道を切り開くことができたと言えます。
八郎の遺品と明治維新に関する資料数百点を保管・展示した清河八郎記念館は、戊辰戦争で庄内藩と新政府軍が戦った「御殿林」の一角にあります。隣接する清河神社には八郎が祀られており、入り口には新徳寺で尊皇攘夷を説く八郎の銅像が立っています。その姿からは今なお、高い志と、世の中を一新する国づくりを目指した熱烈な思いが伝わってくるようです。
八郎の生誕の地である清川は、最上川の清らかな流れと豊かな自然に囲まれた、歴史の風薫る美しい里です。明治維新という壮大な物語の幕を開けた維新の魁・清河八郎の故郷を、ぜひ訪れてみてください。
清河八郎記念館 ※館内の写真は特別に許可を得て撮影させていただきました。
https://hachiro.navishonai.jp/kinenkan/
参考資料
公益財団法人清河八郎記念館(パンフレット)
歴史と文化の薫るまち きよかわ(パンフレット)
山形県庄内町観光ガイドブック『りゅうっと庄内町』
https://www.navishonai.jp/history/hachiro.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%85%AB%E9%83%8E#%E6%B3%A8