【高瀬川と京都】
高瀬川といえば、森鴎外の小説『高瀬舟』でご存じの方も多いかと思います。小説では京都から大阪へと罪人を護送する、物悲しく暗いイメージで描かれるのですが、実際の高瀬川は京都からの水運事業に繁栄をもたらした運河です。高瀬舟というのは、浅瀬を進むことのできる底の平たい舟で、水深数十センチメートルほどの高瀬川を、人の手で引かれて行き来していました。
高瀬川が開かれたのは江戸時代に入ってまもない慶長16年(1611年)のこと。大規模運河の開削など、現代ならば間違いなく国家事業ですが、豪商角倉(すみのくら)家の了以(りょうい)・素庵(そあん)親子が自ら幕府に願い出て許可を得、土地を買い、資金を出してこの大事業に取り組みました。角倉家は、もとは室町時代から続く幕府お抱え医師の家柄でしたが、土倉業(金融業)を営んで財をなし、さらには南蛮貿易や朱印船貿易で莫大な富を得ました。潤沢な資金を背景に、角倉親子が高瀬川開削にかけた費用は、現在の額にしておよそ150億円。民間でこれだけの規模の公共事業を行ったことは驚きに値しますが、完成後の高瀬川の通行料でたちまち元が取れたというのですから、その経営センスがうかがえます。
ただ、この事業を利益ありきの投資のように捉えてしまうのは早計に過ぎると私は思います。というのも、それまで水運に利用されていた鴨川は、古くから大雨のたびに氾濫し、あの白河上皇でさえも「鴨川の水は自分の思いどおりにならない」と嘆いたというほどの暴れ川でした。氾濫のたびに大きな被害を受けていた人々には、安定して物資を運ぶことのできる運河がどうしても必要でした。また了以は、政治の中心が江戸に移ってしまったことに対して、都衰退の危機感を持っていたともいわれます。京都・大阪間の輸送ルートの確保は、商人のみならず、いわば京都全体にとっての死活問題でもありました。
角倉素庵が角倉家の朱印船「角倉船」に乗り込む商人たちのために作った「舟中規約」には、角倉家の事業経営姿勢を見て取ることができるので、一部抜粋してみます。
「そもそも貿易の事業とは、有るものと無いものが互いに通じることで、他にも己にも利益をもたらすものである。他に損失を与えることによって、己の利益を図るためのものではない。ともに利益を受けるならば、その利はわずかであっても、得るところは大きい。利益をともにすることがなければ、利は大きいようであっても、得るところは小さいのだ。」
「異国とわが国とは、その風俗や言語は異なるが、天より授かった人間の本性にはなんの違いもない。お互いが同じであるということを忘れ、違いをあやしんだり、あざむいたり、あざけったりすることは、いささかもしてはならない。たとえ相手がその道理を知らずにいようとも、自分はそれを知らずにいてもよいということにはならない。」
これらの言葉には、自らの利益だけを追求するのではなく、他者を尊重し、全体の利を重視する大きな視座が感じられます。高瀬川開削にあたっても、河岸の住民に対しては事前に「万一工事が途中で頓挫した場合には、土地をすべて元通りにして返す」という誓約を交わすなど、人々に不利益が生じないよう配慮し、また工事や舟の運航によって大量の雇用を生み出しました。高瀬川が開通し、水運によって物を運べるようになると、人と物の交流が活性化して川沿いには材木商などが軒を連ねるようになり、「木屋町」の名前もここから派生したといわれています。周辺は旦那衆が通う茶屋や料亭でにぎわい、舞妓さんで知られる祇園の花街文化もここから発展していきました。
京都の人々に利をもたらさんとする角倉親子の思いから始まり、その後も繁栄の流れを生み出し続けた高瀬川は、明治に運河としての役目を終えるまで、約300年にもわたって京都の物流を支えました。その後、暗渠にして路面電車を走らせる計画が持ち上がりましたが、住民の大反対によって川は残されることとなり、現在も地域の人々によって大切に守られています。
京都の市中を鴨川に寄り添うように流れる高瀬川。そのせせらぎは、春には桜、初夏には蛍、秋には紅葉と、四季折々に美しい表情を見せてくれます。三条ショールームから北東に15分ほど歩くと、その起点である「一之船入跡(いちのふないりあと)」を訪れることができます。ぜひ散策してみていただけたらと思います。
三条ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/sanjo.html
がんこ高瀬川二条苑(角倉了以別邸跡)
https://maps.app.goo.gl/CSXMWE3C79fX4RwZA
参考資料
『京都 高瀬川 ―角倉了以・素庵の遺産―』(石田孝喜著、思文閣出版、2005年)
https://core.ac.uk/reader/236037210
https://florist-westvillage.com/kiyamachi-kyoto/%E6%9C%A8%E5%B1%8B%E7%94%BA%E9%80%9A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/