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【地下鉄の父・早川徳次(はやかわのりつぐ)】

「東京メトロ」の愛称で都内の移動手段として親しまれる地下鉄。その正式名称は東京地下鉄株式会社といい、東京の地下鉄路線のうち、銀座線をはじめとする計9路線を運営しています。民営化から20年、この秋には株式上場を果たし話題にもなりました。東京メトロ銀座駅コンコース内には、創立者であり、日本に地下鉄を紹介・導入したことから、“地下鉄の父”と呼ばれる早川徳次像が設置されています。

早川徳次は1881年(明治14年)、明治期に多くの実業家を輩出した山梨県に生まれました。のちに“鉄道王”と呼ばれた根津嘉一郎、江ノ島電鉄の経営に携わった雨宮敬次郎などが山梨県の出身で、当時は甲州財閥ともいわれていました。徳次もこうした縁を生かし、その力を徐々に発揮していきます。郷里の先輩、根津に見出されてからは、鉄道と本格的に関わるようになり、苦しい経営状態にある鉄道会社の再建を見事に成功させ右腕となって辣腕(らつわん)を振るいました。その後、ヨーロッパの実情を見てこようと出向いたロンドンで、地下鉄に出会います。ロンドンの地下鉄は世界最古の歴史を持ち、日本が幕末のころロンドンでは地下鉄が走っていたのです。徳次が訪れた1914年(大正3年)には、すでに市内に10本の地下鉄路線が設けられていました。ここで夢と目標が芽生えた徳次は一度帰国したものの、他国の地下鉄も見たいと思うようになります。1915年(大正4年)から翌年にかけ、イギリス、フランス、スイス、カナダ、アメリカと欧米を巡り、視察を終えると徳次は35歳になっていました。

当時の東京市内といえば、山手線など一部の官制路線があったものの、市内の交通は路面電車が頼りの交通事情でした。こうした実情を見た徳次は、市電の数倍の輸送力を持つ地下鉄路線が必ず必要になると確信。帰国してすぐに、地下鉄建設に向け当時は行われていなかった調査を始めます。どこに路線を敷けば効果的か、今でいう「交通量調査」は当時カウンターなどなく、1人数えるごとに豆をポケットからポケットへ移し、家に帰ると妻が集計をするという大変な作業でした。さらに「地質調査」、工事中に悩まされる「湧水量調査」も行いました。

こうした調査を終えれば、あとは金策、人材確保、そして財界の重鎮にいかに手助けしてしてもらうかになるわけですが、これは予想以上に難航し申請の認可に至るまで続くことになります。渋沢栄一には地下鉄支援を取り付けたものの、高齢を理由に代表就任を断られますが、代わりに地下鉄誕生に大きな力となる人々の紹介がありました。各議員への徳次の根強い説得に加え、東京の将来には地下鉄が必要という声が少しずつ出るようになり、地下鉄事業に注目する企業もちらほら現れます。そんな動きを察した徳次は、1920年(大正9年)、東京地下鉄道を設立。7年後には日本初の地下鉄として、ついに現在の銀座線、上野-浅草間を開通させました。ロンドンで地下鉄に出会ってから十数年の出来事です。のちには、東京高速道路との経営権闘争の末、鉄道省の仲裁による和解条件として1940年(昭和15年)に地下鉄経営から退いています。

ここではほんの一部のご紹介になりますが、信念を貫き次々とやってくる逆境を乗り越え、壮大な目標の達成に至るまでのその様子は、物語の主人公さながらでした。61歳で亡くなる直前に、自分の娘に語った言葉が残されています。「今に東京の地下は蜘蛛の巣のように地下鉄が縦横に走る時代が必ず来る。また、そうでなくてはならない」。時を経て、現在の東京地下鉄路線図は、徳次の言葉どおり蜘蛛の巣のように張り巡らされています。

※早川徳次は、日本の電機メーカー・シャープの創業者と同じ漢字の名前を持つ別人物です。

銀座ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/ginza.html

参考資料
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6398/
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC225120S4A021C2000000/
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=2196
https://getnavi.jp/vehicles/708327/
https://getnavi.jp/vehicles/709240/