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【新島襄と同志社大学】

先日、同志社大学の創設者である新島襄・八重夫妻のお墓にお参りしてきました。哲学の道の南端、若王子神社の横の道から急な山道を登っていくと、同志社の関係者が眠る同志社墓地があります。1890年(明治23年)、敬虔なクリスチャンであった新島襄が生涯を閉じた時、棺を担いだ3000人もの行列が、同志社大学の礼拝堂から山頂まで続いたと伝わります。享年46歳。幕末に国禁を犯して単身アメリカへ渡り、帰国後日本の教育のために奔走した生涯は、残した仕事の大きさに対してあまりに短く、いったいどれほどの密度で生き抜いたのかと驚かされます。

新島襄(本名:七五三太〈しめた〉)は1843年(天保14年)、上州安中藩(現・群馬県)藩士の子として生まれました。活発な子どもでしたが、8歳の時遊んでいて頭に大怪我をしてから、関心が勉学に向かうようになります。若くして藩主から才を見込まれ引き立てられますが、蘭学所に通いたいがために職務を怠ってたびたび藩邸を抜け出しました。藩主に見つかって激しく殴られてもその衝動は抑えがたく、学問を禁じられたことでひどく心身を病むほどであったため、ついに藩主の方が折れて学問所に行くことが許されました。17歳のころには海軍教授所に入所し、教鞭を取っていたジョン万次郎こと中浜万次郎とも出会っています。また同じころ、蘭学所の先生から借りたアメリカ合衆国についての本で、その民主主義政治や教育、福祉政策に衝撃を受けます。さらに、漢訳されたキリスト教の聖書を読んだことにより、親や藩に従うのではなく神に従うことによって、人々の自由のために働くべきであるという思いを強めていきました。当時幕府は崩壊の危機にあり、下層で生きる人々に社会の矛盾がのしかかっていました。また、キリスト教の信仰は禁じられ、外国に行くことはおろか脱藩すら罪に問われる時代。大志を抱いた青年にとって、それは小さな籠に閉じ込められるも同然の苦痛であったことでしょう。1864年、21歳の新島はついに国禁を犯して函館港からアメリカ船に乗り込みます。当時、脱国は見つかれば死罪。命懸けの決断でした。

多くの人に助けられ、船ではボーイとして働きながら、翌1865年、新島はボストンに辿り着きました。この時彼をボストンまで運んでくれたワイルド・ローヴァー号の船長テイラーが、親しみを込めて彼を「Joe」と呼んだことが、のちの「新島襄」になります。到着した現地には何のツテもなく、言葉も通じません。そんな新島を助けてくれたのが、ワイルド・ローヴァー号の船主であったハーディー夫妻でした。船長の紹介で新島に会ったハーディーは、英語をうまく話すこができない新島が二日間徹夜して書き上げた「脱国の理由書」に感動し、彼を家族同然に受け入れ、アメリカでかかる費用の一切を引き受けてくれたのです。ハーディーの支援によって新島は高校で英語を学び、アーモスト大学に入学、1870年には学位を取得し、アメリカの大学を卒業した最初の日本人となりました。

一方その間、日本では大きな変化が起こっていました。265年もの長きにわたった徳川幕府が倒れ、1868年に明治政府が誕生したのです。1871年、マサチューセッツ州のアンドーヴァー神学校で神学を学んでいた新島のもとに駐米公使である森有礼が訪ねてきました。語学やアメリカの教育に通じた新島を岩倉使節団の案内役に、と期待されたためです。死罪も覚悟の密航者であった新島に、ようやく正式な「留学生」という身分ができました。その後、岩倉使節団を手伝ってヨーロッパ視察にも同行。政府関係者からは日本の教育制度を整えるための協力者となるよう帰国の要請もありましたが、権力の束縛を受けることを嫌う新島はそれを断ります。そして伝道団体であるアメリカン・ボードから宣教師として日本に派遣される道を選びました。1874年、帰国を目前にした新島は、グレイス教会で開かれたアメリカン・ボードの年次大会で、1000人余りの聴衆に向かって日本にキリスト教の大学をつくりたいという夢を語り、寄付を呼びかけました。新島の熱い思いに胸を打たれた医師や元知事などが次々に声をあげ、5,000ドルもの寄付が集まったそうです。この時、年老いた農夫が持ち金のすべてを帰りの汽車賃の2ドルとして差し出してくれたというエピソードは、今も大切に語り継がれています。

こうして新島は帰国しました。脱国してから10年もの歳月が流れていました。新島は、すでにアメリカから派遣されていた宣教師たちが活動する大阪に赴き、そこに開校したいと考えます。けれども当時の大阪府知事がキリスト教主義の学校をつくることを許さなかったために断念。次に打診した京都府知事から前向きな回答を得ることができました。宗教的な理由でさまざまな妨害も受けましたが、協力者で恩人である義兄・山本覚馬から薩摩藩邸跡地を譲り受け、1875年、同志社英学校開校にこぎ着けました。北は相国寺、南は御所に挟まれた、現在の今出川キャンパスです。8名の生徒と、新島を含む2名の教師での小さなスタートでした。その後も女学校の設立や病院設立、地方への教育機関設立のために奔走した新島は、同志社英学校が「大学」となるのを見届けることなく世を去りましたが、その志は絶えることなく、現在では30,000人を超える学生が学ぶ大学へと成長を遂げました。けれども新島は生前、「大学の完成には200年かかる」と語っており、その言葉によれば大学はまだ未完成です。同志社は2025年で設立150周年を迎えます。新島の目には、どんな未来の姿が映っていたのでしょうか。

最後に、新島が学生たちに対して涙ながらに呼びかけた「諸君ヨ、人一人ハ大切ナリ」という言葉を記しておきたいと思います。今回新島の足跡を辿ってみると、新島襄とはまさにこの言葉のとおり、何か特別な能力で大事業を成し遂げた人物というよりも、ただひたすらに目の前の人一人と誠実に向き合い続けるその姿勢によって、国籍や身分、性別、宗教を超えた対等な対話を実現し、あらゆる困難な場面を切り拓いていった人物であるように感じられました。とても書ききれませんでしたが、新島襄にはまだまだ魅力的な言葉やエピソードがたくさん残っています。ご興味を持たれた方はどうぞ調べてみてください。また、当店今出川ショールームから徒歩15分の場所に位置する今出川校地は、文化財の建物も多く美しいキャンパスですので、ぜひ一度足を運んでみていただければと思います。

同志社大学 今出川キャンパス
https://maps.app.goo.gl/j4hmbYF3nzWy2XTL7
今出川ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/imadegawa.html

参考資料
https://www.doshisha-ikkan.info/digitalbook/Joe_Neesima_jp/html5m.html#page=1
http://www.doshisha.ed.jp/history/niijima.html
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/新島襄