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【市民がつくった「日本初の小学校」】

四条烏丸にある京都芸術センターに行ってきました。京都芸術センターは旧・明倫小学校の建物を用いた、アートの創造と発信の拠点施設。昭和6年に建て替えられた旧校舎はスパニッシュやアールデコを取り入れたモダン建築で、国の登録有形文化財になっています。かつてここで学んだ子どもたちがうらやましくなるような素敵な校舎なのですが、この学校ができた背景には、京都の人々が未来を担う子どもたちに託した大きな夢がありました。

時は明治。新政府による東京遷都を受け、有力な華族や商人らがこぞって東京へと移住しました。京都の人口は激減し、その衰退ぶりは「いずれ狐や狸の棲家になる」といわれるほどだったそうです。「この状況をなんとかしなくては、京都の未来がない」。そう考えた人々は知恵を絞り、一丸となって近代化に向けた打開策を打ち出しました。その一つが「将来を担う子どもたちの教育に力を注ぐ」こと。町の寺子屋の師匠であった西谷良圃(にしたにりょうほ)という人物が、福沢諭吉の思想に基づいた、新しい時代にふさわしい小学校をつくることを提唱し、それに賛同した人々が動き出したのでした。

明治2年、京都の市民たちが出し合った「竈金(かまどきん)※1」と呼ばれる寄付を元に、華士族以外のすべての子どもが通える学区制小学校「番組小学校」が誕生します※2。たった半年の間に、延べ64もの小学校が開校しました。これはなんと日本政府による学校制度ができるより3年も早く、国内初の取り組みだったといいますから、京都の人々の先見の明と底力には驚かされます。「学問の道というは難字古事を覚ゆる勤めにあらず、ただ人と生まれて人たる者の大道の要を求るにあり」とは、前述の西谷良圃の言葉。当時、彼らが教育に注いだ情熱が、ビリビリと伝わってくるようです。こうした人々の努力によって、衰退の危機に瀕していた京都に、新たな歴史が開かれていきました。

その後、明治8年には新島襄によって同志社英学校(現・同志社大学)が、また明治13年には日本初の公立美術学校である京都府画学校(現・京都市立芸術大学)も開校し、多くの歴史的人物たちを輩出しています。

現在は少子化による小学校の統廃合で、多くの番組小学校がその役目を終え、そのいくつかは文化施設などとして、かつての面影を残しつつ活用されていますが、どの校舎も凝った造りで美しく、訪れるたびに昔の京都の人々の意地と、子どもたちに託した願いを感じて、なんだか胸が熱くなってしまいます。

さて、先日訪れた京都芸術センターでは、現代アーティスト林智子さんによる個展「そして、世界は泥である」が開催されていました。古い小学校の廊下や手洗い場などがそのまま残る空間に、微生物や鉱物の世界に意識をつなぐような林さんのインスタレーションが絶妙にマッチして、ディープな世界観にどっぷりと浸ってきました。

三条ショールームの周辺にも、旧番組小学校を活用した施設がいくつもあります。市街地観光に疲れたら、クールダウンがてらぜひ訪れてみてください。

※1 竈金(かまどきん):子どものあるなしにかかわらず、かまどのあるの家が金一分ずつ寄付を出したことから、このように呼ばれた。払えない家の分はほかの家が立て替えた。
※2 数年後には華士族の子どもも番組小学校に通うようになり、華士族も竈金を払うようになった。

三条ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/sanjo.html
三条ショールーム周辺の旧番組小学校
https://www.kac.or.jp/ (京都芸術センター)
http://kyo-gakurehaku.jp/ (京都市学校歴史博物館)
https://kyotomm.jp/ (京都国際マンガミュージアム)
http://k-kaleido.org/ (京都万華鏡ミュージアム)

参考資料
https://www.kyotoside.jp/entry/20190206/
https://kyoto-bunkaisan.city.kyoto.lg.jp/kyotoisan/nintei-theme/meijinoayumi.html
https://www.city.kyoto.lg.jp/sogo/page/0000230007.html
http://kyo-gakurehaku.jp/collection/time_slip/img/knp54.pdf