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【京焼・清水焼】

「京焼・清水焼」は桃山時代から、茶の湯の流行とともに発展してきた京都の伝統工芸品です。

「清水焼」は、清水寺への参道である五条坂界隈の窯元で焼かれていた焼き物、「京焼」は、それ以外にも京都で焼かれていた粟田口焼や音羽焼などを含む京都の焼き物の総称でした。経済産業大臣指定の伝統工芸品としての正式名称が「京焼・清水焼」となったことから、現在は、京都で焼かれる焼き物全般を「京焼・清水焼」と呼んでいます。

京焼・清水焼は、ほかの焼き物の産地と異なり、特定の様式・技法があるわけではなく、手びねり、ろくろ、型、また、染付、色絵、銹絵、交趾など、さまざまな成形技法や装飾技法が融合しています。その背景には、都のあった京都が、日本中から選りすぐりの材料と職人が集う街であったという環境と、その文化を後援する神社仏閣、皇族、貴族などの存在があったことが挙げられます。多様な産地の良さが積み重なり、現在の京焼・清水焼が成り立っているのです。あえて京焼・清水焼の特徴を挙げるとするならば、その工程のほとんどを人間の手作業で行っているため生産できる量が少なく希少性が高いことでしょう。京都には現在でも300軒以上の窯元がありますが、業界の規模はほかの有名産地と比べるとこじんまりとしていることもあり、生産できる物量が限られているため、京焼・清水焼が目に留まる機会は少ないかもしれません。

京都は昔から日本の中心地として全国の焼き物が流入する巨大な市場でした。桃山時代に入ると、茶の湯の流行とともに京都市内でも楽焼やさまざまな茶道具、器が作られるようになり、茶人や宮家・公家、各地の大名や寺へ献上されるようになりました。織田信長や豊臣秀吉に仕えた茶で有名な千利休の指導のもと、長次郎が焼き始めた楽焼が本格的な京焼・清水焼の始まりといわれています。そして江戸時代には、野々村仁清や尾形乾山などの名工たちによってその技術が磨かれました。乾山のあと、数多くの窯が衰退を重ねましたが、京都で初めて磁器を焼いた奥田頴川、彼に入門し磁器を焼いた青木木米、欽古堂亀祐、仁阿弥道八・尾形周平兄弟、永楽保全・和全親子などが江戸時代の京焼・清水焼の名工として歴史に名を残しています。彼らの作品は、中国・朝鮮半島・日本の歴代の焼き物の技術や作風を再現・応用しながらも、そこにおのおの何らかの個性的な作為を示し、京焼・清水焼にさまざまな作風、形のものが誕生しました。また、その技術やデザインは京都だけにとどまらず、九谷をはじめ日本各地に広がっていきました。

当店で取り扱いしている大阪の吉向窯も、京焼の名人たちに作陶を学んだ窯元の一つです。江戸時代、伊予大洲藩出身の戸田治兵衛が京に出て、楽家九代了入・初代清水六兵衛・仁阿弥道八・浅井周斎などの名人たちに作陶を学び、大阪十三村に「十三軒松月」として創業し、現代まで約200年の伝統を守っています。徳川11代将軍家に亀の食籠(じきろう)が気に入られたことから、亀の甲羅の「亀甲(きっこう)」にちなみ、吉向の窯号を賜ったことが吉向窯の由来です。吉向焼は、大阪で唯一現代に残る焼物で、ボストン美術館にも30点ほど作品が収蔵されています。

おいしそうな形をした吉向窯のそら豆の箸置きは、石炭層を含む独自配合の土で成型し、1000度で素焼きしたあと、刷毛で釉薬と色土を手塗りします。同じ土で土台を作ってから本焼きするため、底面にも色が付いています。一点一点濃淡や風合いが異なり、鮮やかでありながら味わい深い色味、やさしい丸みで箸を置いたときに安定感がある使いやすい大きさと形、手仕事ならではの良さが溢れる箸置きです。現在、三条ショールームに展示しておりますので、ご来店の際にはぜひお手にとってご覧くださいませ。

吉向窯 そら豆の箸置き
https://www.shokunin.com/jp/kikkou/soramame.html
三条ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/sanjo.html

参考資料
https://www.asahido.co.jp/knowledge/about_kyoyaki_kiyomizuyaki/
https://www.seigado.jp/concept/
https://seika-dou.com/pages/yakimono-kyoyaki