



【西陣織】
西陣織とは、京都・西陣で生産される織物の総称で、国の伝統工芸品に指定されています。西陣という地名は、応仁の乱にて西軍を率いた山名宗全がこの地に陣を敷いたことが由来です。西陣を区分する明確な境界線はありませんが、西陣織に携わる業者は主に上京区と北区を中心に、北は上賀茂、南は丸太町通、東は烏丸通、西は西大路通に囲まれたあたりに多く存在しています。
京都での織物作りの歴史は古墳時代にまで遡り、渡来人である秦氏が、山城国にて養蚕と絹織物の技術を伝えたことが始まりとされています。飛鳥時代や奈良時代を経て、平安京に遷都されると、律令制のもと、宮廷の織物を管理する「織部司(おりべのつかさ)」という役所が設けられます。現在の上京区上長者町に位置し、高度な技術を持った職人たちが集められ、高級織物の生産を担いました。
しかし、平安時代半ばになると律令制は崩壊し、官営の工房を維持することが困難になります。そこで職人たちは、織部司の東にある大舎人(おおとねり)町に移り住み、宮廷の管理下を離れた自由な織物作りへと移行します。宋から伝えられた技術を独自に研究し、貴族や神社・寺院の装飾用に織物作りを続けました。
そして室町時代、応仁の乱が勃発します。11年にも及ぶ戦の間、多くの職人たちは戦果を逃れて大阪などに移動し、大舎人町の織物業は一時は壊滅状態となりました。しかし戦が終結すると、職人たちは京都に戻り、「大舎人座」と呼ばれる組合を結成し、切磋琢磨しながら織物業を復活・発展させていきました。その後、明から技術や道具が伝来して、染めた糸を使い色柄や模様を織り出す紋織(紋織)が可能となり、西陣織の基礎が築かれました。
江戸時代になると、西陣織は全盛期を迎えます。戦乱の世が終わり、人々は贅沢を求め衣服需要が高まっていたのです。しかしそんな繁栄の最中、「西陣焼け」とも呼ばれる大火災が発生。数時間で西陣一帯を焼き尽くします。 また、度重なる飢饉によって不安定な世の中となり着物の需要も減少、その後も二度目となる大火に見舞われるなど、苦境に立たされることとなりました。
そして東京に都が移ると顧客を大幅に失い、西陣織は以前にも増した危機を迎えました。そこで、京都府による計画のもと、西陣の職人たちをフランスに派遣し、文明開花へと乗り出します。ジャガード織物などの技術を持ち帰ったことで量産化が可能となり、いち早く近代化に成功したのです。
現在では、日本の織物の最高峰を占めており、伝統的な帯地や着物に限らず、ネクタイや和装小物、インテリア用品などへと用途を拡大しています。今出川ショールームはまさに西陣の地にあり、近くには西陣織の魅力に触れることのできる西陣織会館があります。ぜひお立ち寄りください。
西陣織会館
https://nishijin.or.jp/nishijin_textile_center/
今出川ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/imadegawa.html
参考資料
https://nishijin.or.jp/whats-nishijin/history/
https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012468.html
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka12.html