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【豊臣秀吉による京都のまちづくり】

碁盤の目状の街並みで形成され、今もなお平安京の名残を強く感じる京都の街ですが、応仁の乱によってその大半が焼失した過去を持ちます。それを再建し、大規模な都市改造を行ったのが豊臣秀吉。実は、現在の京都には秀吉によって築かれたものが多く存在します。

秀吉によって京都はどのように変化したのでしょうか。その主な事業として、①聚楽第(じゅらくだい)の建設、②御土居の建設、③寺町・寺之内の形成、④天正の地割が挙げられます。

①聚楽第の建設
本能寺で織田信長が謀反に倒れると、その実権は秀吉の手に渡りました。まず、秀吉は平安京の大内裏跡地を利用し、自身の邸宅や政治の場として「聚楽第」の建設を行います。絢爛豪華で、周囲に広く堀を巡らせた城郭の周囲には、武家屋敷や公家屋敷などが並び、城下町のような様子だったそうです。秀吉が甥の秀次に関白職を譲ると、秀次は聚楽第に移り住みますが、その後、秀次は秀吉によって高野山に追放されることになります。その際、秀次を謀反人として印象付けるため、聚楽第を徹底的に取り壊しました。竣工から取り壊しまでのわずか8年しか存在せず、現在でもその全容は謎に包まれています。

②御土居の建設
秀吉の行った改造政策の中で最も大規模なものが「御土居」と呼ばれる土塁の建設です。敵の襲来に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防の役割を持ち、北は鷹ヶ峯、南は九条、東は鴨川、西は紙屋川辺りに沿って築かれました。荒廃し、上京と下京の2つの街に分断されていた当時の京都を一つにしたのがこの御土居でした。工事には数万人が動員され、4カ月程度の短期間で完成されました。御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼び、出入り口として七口を設けました。鞍馬口、丹波口などの地名はその名残です。

③寺町・寺之内の形成
御土居の建設を前後にして、御土居の東側に「寺町」、聚楽第の北側に「寺之内」を形成し、洛中に点在していた各寺院を移転させました。その目的は、京都の防衛と税の徴収の効率化だったといわれています。いずれも寺町通、寺之内通として現在も残されています。当時の寺町通には、北は鞍馬通から南は五条通までの間に寺院が集められ、その数80以上だったと伝えられています。本能寺や誓願寺が現在の場所に移動したのもこの時期です。

④天正の地割
平安京の通りは約120m間隔に作られており、正方形に区画されていましたが、秀吉はその正方形の中間にも通りを設け、新たに地割を行いました。平安時代、この区画には貴族たちの邸宅が並びましたが、次第に商業が発達し、商人の店や家が並ぶようになると、間口が通りに向いた建物が増加していきました。その一方で、通りに接しない正方形の中心部は空き地になり、あまり利用されなくなっていたのです。そこに通りができたため天正の地割後は、正方形から長方形の区画になり、道幅も縮小。秀吉が新設した通りは、御幸町通、富小路通、堺町通など12に上り、現在も市街地を支える重要な通りとなっています。

以上の事業のほかにも、三条大橋や五条大橋、御所(内裏)を改修・整備するなど、さまざまな場所でその変革をうかがうことができます。秀吉は平安京の面影を残しながらも、中世から近世へと移り変わる時代に合わせた、軍事的にも商業的にも新しいまちづくりを京都にもたらしたのです。

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参考資料
https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012443.html
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/400.pdf
https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005643.html
https://www.okeihan.net/navi/kyoto_tsu/tsu201611.php
https://www.kyoto-teramachi.or.jp/history/
https://ja.wikipedia.org/wiki/聚楽第
https://ja.wikipedia.org/wiki/御土居
https://ja.wikipedia.org/wiki/天正の地割
https://ja.wikipedia.org/wiki/寺町通