【路地と辻子】
京都は、碁盤の目状に張り巡らせた条坊制の街が特徴です。大路・小路と呼ばれる通りが東西南北に走り、その通りに沿って店や家が建てられましたが、通りに囲まれた区画の中心部分は空き地になってしまいます。そこで作り出されたのがこの空間に入るための道、すなわち「路地」でした。京都では「ろーじ」と発音し、この小さな道沿いにも建物が並び、より多くの人々が住むようになっていきました。
路地の多くは袋小路で、表の通りから路地への入り口は、門が設けられたり住民の表札が掲げられたりします。京都における路地は、単に道幅の狭い道路を指すのではなく、生活空間であり、きわめて内部的な存在なのです。道幅は人のすれ違いができないようなものから、自動車が行き違えるようなものまでさまざまです。
また、路地の突き当たりを貫通させ、通路として開放させたものを「辻子(づし・図子とも書く)」と呼びます。路地とは違い、一般の通り抜けが認められています。特に、上京区の一条通より北に集中し、京都市にある約100の辻子のうち、半数が上京区にあるとされています。
その理由は、この地域がもともと平安京の範囲外だったことに関係します。平安時代、北端の道路は一条通で、それより北は未開発地域でした。しかし中世になって都市化が進み、烏丸通や室町通、堀川通などの南北の道路が北へ延びると、それらの道路に沿って家が建ち並び、それぞれの町に人が往来するようになりました。この南北の道路を連絡するために作られた東西の道が辻子なのです。
人々の生活に根ざして形作られていった辻子は、京都で暮らした職人や文化人たちの面影を残すものが数多く存在します。
大宮通五辻入るにある「紋屋辻子」はかつては袋小路でしたが、紋屋という宮中に織物を納める蔵元が大宮通まで道を開きました。この図子の中ほどには「三上家路地」が接しており、一番奥には唯一残る織元「三上家」が構えます。路地両側の築140年の長屋には西陣織の職人を住まわせていた歴史があります。
堀川通今出川上るには「山名辻子」があり、応仁の乱で西軍の総大将だった山名宗全の邸宅があったことが由来です。西軍がこの地に陣を置いたことから、一帯が「西陣」と呼ばれるようになりました。
ほかにも、元誓願寺通小川東入るには狩野元信が住んだという「狩野辻子」、油小路今出川上るには本阿弥光悦の生家があったという「本阿弥辻子」など、何気ない小道にも逸話が隠れています。
今出川ショールームはまさに辻子の集中する地域にあります。お越しの際は、周辺の散策も併せてお楽しみください。
今出川ショールーム(火水木の14-17時に営業)
https://www.shokunin.com/jp/showroom/imadegawa.html
参考資料
https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012338.html
https://www.okeihan.net/navi/kyoto_tsu/tsu200906.php
https://ja.wikipedia.org/wiki/京都市内の通り#図子(辻子)と路地
https://www.kyotoliving.co.jp/article/121103/front/index.html