2026年01月

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【日本の「立ち飲み」物語】

日本の立ち飲みのルーツは、江戸時代に酒を小分け販売していた「請酒屋(うけざかや)」での立ち飲みにあります。当初、庶民は徳利を持参して量り売りでお酒を自宅へ持ち帰っていましたが、なかにはその場で飲み始める客が現れました。これを店に「居」ながら飲むという意味で「居酒(いざけ)」と呼ぶようになったのが、居酒屋の始まりです。

初期の居酒屋は「居酒致し候」という看板を掲げただけの非常に簡素な立ち飲みであり、当初は料理も提供されず、ただひたすらお酒を嗜むという大変クールな場所でした。客層は、男性が女性の倍を占めていた江戸の町を反映し、職人や駕籠(かご)かきといった労働者が中心です。居酒屋の店先には、日々をたくましく生きる人々による活気ある空間が広がっていました。

江戸っ子たちの飲み方には、独特の習慣がありました。当時の日本酒は濃厚な原酒だったため、店先で水を混ぜる「玉割り」を行い、度数を5%ほどに調整して提供されていました。また、儒学や当時の健康指南書『養生訓』の影響で「冷や酒は体を壊す」と信じられていたため、一年中「燗酒」で飲むのが一般的でした。彼らは「ちろり」で温めたお酒を、仕事中や朝から晩まで、日常の水分補給のように楽しむことも珍しくなかったといいます。

文化が発展するにつれ、居酒屋は店先に腰掛けたり、店内でゆっくりと座ったりする形態へと変化していきます。しかし、その一方で、立ち飲みが廃れることはありませんでした。仕事の合間に手早く喉を潤したい労働者や、酒屋の店先で気兼ねなく一杯楽しみたい人々にとって、立ったまま飲む気軽さは何物にも代えがたい魅力だったのです。

この効率性の高さは、のちの歴史の荒波でも真価を発揮します。昭和18年(1943年)の東京都では、戦時下の混雑解消のため、行政の指導により椅子を用いない「国民酒場」が生まれました。また、戦後の大阪を中心に、限られたスペースを譲り合うための独特な立ち姿「ダークダックス」が誕生。これは、当時人気の男性コーラスグループが一本のマイクに向かって斜めに重なり合って歌う姿になぞらえ、カウンターに対して半身で立つ姿勢を指します。一人でも多くが楽しめるようにと生まれた、立ち飲み屋ならではの和気あいあいとした空間活用術です。

酒屋の店頭で飲むスタイルは、各地で独自の文化を形成しました。その代表格が福岡県北九州市の「角打(かくう)ち」です。明治以降、製鉄業などで栄えた工業地帯では、八幡製鐵所などの深夜労働者が仕事帰りに早くから開いている酒屋へ立ち寄り、店の一角で飲む習慣が定着しました。以前訪れたことのある北九州市は戸畑区の角打ちで目にしたのは、空間の中央にどっしりと鎮座する大きなコの字カウンター。その古い佇まいからは、かつて多くの人々であふれ返り、活気に満ちていたであろう時代の残り香が色濃く感じられ、地域の人々の絆を支えてきた歴史の重みが伝わってくるようです。

一方、東京の下町には、戦後復興期の面影を残す「大衆酒場」が根付き、安価でボリュームのあるモツ煮込みや焼酎ハイボールを楽しみながら、見知らぬ者同士がテーブルを囲んで飲む空間が今日まで多くの人に愛されています。先日訪れた上野の大衆酒場は、まさに東京らしい活気ある大箱の立ち飲み店。ひしめき合う熱気と、絶え間なく飛び交う注文の声に、今もなお衰えることのない立ち飲み文化の勢いを肌で感じずにはいられませんでした。

近年では、昭和レトロへの関心や、1,000円前後の手頃な価格でお酒を楽しめる、いわゆる「せんべろ」の魅力、女性一人でも入れるお洒落な店舗の登場により、立ち飲みは再び脚光を浴びるようになりました。江戸の酒屋から始まった「一杯ひっかける」気軽な精神は、時代を超えて「現代の社交場」として受け継がれています。

廣田硝子 究極の日本酒グラス
https://www.shokunin.com/jp/hirota/nihonshu.html
能作 本錫の酒器
https://www.shokunin.com/jp/nousaku/shuki.html
わたなべ木工芸 ハツリぐい呑み
https://www.shokunin.com/jp/watanabe/hatsuri.html
ショールームのご案内
https://www.shokunin.com/jp/showroom/
藤高酒店
https://maps.app.goo.gl/TWd8LTehkCWMXJMR8
立飲み たきおか
https://maps.app.goo.gl/AHLXx2DMbF8JLw9M6
立ち飲みカドクラ
https://maps.app.goo.gl/HwRQPCs547FWtmbt6

参考資料
https://museumcollection.tokyo/works/6254229/ (Tokyo Museum Collection)
https://sakabanashi.takarashuzo.co.jp/cat1/edosake_210716
https://monteroza.net/archives/6439
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E3%81%A1%E9%A3%B2%E3%81%BF

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【若松の十日ゑびす祭】

九州三大恵比須の一つ、若松惠比須神社。若松ショールームから程近く、若戸大橋の真下に鎮座しています。地元では「おえべっさん」と呼ばれ、親しまれています。

本日17時まで十日ゑびす祭が開催されており、多くの人が参拝に足を運んでいます。境内の提灯には、恵比須さまの象徴でもある鯛が2匹描かれていて、それだけでもなんだか縁起が良いような気がします。ささやかではありますが、若松ショールームの商売繁盛を祈願してきました。

本日、少々風が強いですが、吹き抜ける風は港町を感じさせ、どこか相性が良いようです。ショールームへお越しの際には、併せて立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

若松惠比須神社
https://wakamatsu-ebisu.jp/
若松ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/wakamatsu.html

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【二つの相国寺】

今出川ショールームから徒歩で東へ15分、京都御苑の北側に、臨済宗相国寺派の大本山「相国寺」があります。相国寺は、14世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建されました。その境内は、法堂、方丈、庫裡、開山堂、勅使門、総門、浴室、鐘楼、蔵経塔、弁天社などから成りますが、創建後、たびたび火災に遭っており、創建当時のものは残っていません。とはいえ、1605年に豊臣秀頼の寄進により再建された法堂は、日本最古の法堂建築として今に伝わり、また、桃山時代にできた禅宗様建築としては、最大最優秀作といわれています。法堂は松林に囲まれ、その威風堂々たる伽藍建築は重要文化財に指定されています。12月初頭に訪れてみると、まだ境内の紅葉が法堂の荘厳さに色を添えている様を眺めることができました。

法堂内部は、限られた期間しか公開されていませんが、正面に高い階段を三方に備えた須弥壇があり、須弥壇の中央には本尊釈迦如来、脇持は向かって左に阿難尊者、右に迦葉尊者の像が祀られています。天井には、鳴き龍の名で有名な蟠龍図があります。1605年に相国寺の法堂が再建された際、狩野光信によって画かれたこの図は、円相内にその全容がくっきりと描き出され、彩色も美しいままに残っています。

相国寺境内には、十二の塔頭寺院がありますが、京都を訪れる観光客にもよく名の知れた金閣寺・銀閣寺も共に、相国寺の山外塔頭寺院であることは、意外に知られていないのではないでしょうか。金閣寺が足利義満によって創建されたことは広く知られていると思いますが、実は相国寺とほぼ時を同じくして創建されたのです。銀閣寺のほうはその後年、室町幕府八代将軍である足利義政により創建されています。いずれも、足利歴代将軍が創建した禅宗寺院として、本山である相国寺の塔頭寺院となり今に至っています。さらに、法堂正面に向かって左脇の「天響楼」と呼ばれる鐘楼があり、そこに「友好記念碑」も立っており、そのそばの看板に以下のように書かれていることも、あまり知られていないかもしれません。

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日中両相国寺友好記念の碑と天響楼

 日本の相国寺は、明徳三年(一三九二)に開山夢窓国師、開基足利義満公により創建され、正式名称を萬年山相国承天禅寺という。寺号由来の一つに義満公が禅の師匠である春屋妙葩禅師(相国寺第二世)に、新しい寺の名称を相談したところ「現在あなたは左大臣の位にあり中国ではこれを相国といいます。相国寺とつけては如何か」また「中国の開封に大相国寺(唐・延和元年七一二)という寺があり、まさに格好の名前ではないか」と進言したことによる。
 時は流れ平成四年(一九九二)十一月、開封大相国寺の本尊開眼、真禅住職晋山式に参列するため、当時の梶谷宗忍相国寺派管長を団長に訪中、併せて日中両相国寺友好寺院の締結調印が行われた。このことは日中の佛教寺院交流史上初のことである。
 平成六年(一九九四)に友好を謳った記念の石碑が日中両相国寺境内に建立された。石碑はインド産黒御影石で当時の梶谷管長及び趙撲初中国仏教協会会長の書で碑文が刻まれた。
 平成二十三年(二〇一一)八月中国大相国寺(釋心廣住職)より、梵鐘が日本相国寺(有馬頼底住職)へ寄進された。鐘楼は天響楼と名付けられ日中両相国寺の未来永劫にわたる友好の証しとして現在に至っている。
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私はその河南省・開封に旅し、中国の「大相国寺」も訪れたことがあります。開封は、古くは「汴京」と呼ばれ、中国の歴史上、何度も首都が置かれた古都です。最後に首都となった北宋の時代には、黄河中流域の華北と、長江流域の江南を結ぶ大運河の拠点の一つとして各地の物資が集散するようになり、栄華を極めました。その繁栄ぶりは、書物『東京夢華録』や絵画『清明上河図』に描かれています。大相国寺は、6世紀の北斉の時代に創建され、当時は「建国寺」という名称でした。8世紀の唐代に睿宗によって「相国寺」と改名、その後、睿宗が玄宗に譲位して太上皇帝となったことを記念し、「大相国寺」という名が与えられました。開封が北宋の首都として繁栄すると同時に、大相国寺も次々と拡張され、北宋最大の寺院として皇帝の手厚い庇護を受けていました。しかしながら、12世紀に北宋が金に滅ぼされて開封が衰退し始めると、大相国寺もまた荒廃していくことになります。大相国寺は、明清の時代に幾度か修復されたものの、黄河の氾濫に遭うなどにより、衰退は免れませんでした。時は下り、20世紀になってから本格的な修復が進められていき、1992年、ついに本尊が開眼、仏事が再開することになりました。京都の相国寺は、その際に訪中団を派遣し、大相国寺との間で友好寺院の締結を行ったのです。

現在の大相国寺は、明清時代の建築様式を伝えるもので、大門、天王殿、大雄宝殿、八角瑠璃殿、蔵経楼等から成ります。主殿の大雄宝殿は、清代の順治帝の時代に再建されたもので、内部には、高さ4.3mの釈迦牟尼像が安置されています。また、八角瑠璃殿の内部には、高さ7mの四面千手千眼観音像が安置されています。私が開封の大相国寺を訪れたのは10月で、ちょうど開封の街全体で菊祭が開催されており、大相国寺の境内にも、丁寧に手入れされた菊が所狭しと飾られ、寺院建築に落ち着いた華やぎを添えながら、多くの参拝客の目を楽しませていました。そしてその境内には、京都の相国寺の境内に立っているものと同じ「友好記念碑」が静かに立っていました。日本との縁はそれだけではなく、遣唐使として中国に渡った空海が一時期、大相国寺に滞在したといわれており、それを記念して、境内の大師堂に、空海の銅像も建てられています。

現在の開封の街は、北宋時代の栄華はあまり感じられませんが、それでも、当時から続く街の活気を味わえる場所があります。それは夜市です。北宋より前の時代には、商売は官営で、同業組合によって厳しく管理されていたところ、北宋の時代には、商売の自由化が進み、その結果、夜市も盛んに開かれるようになりました。現在の夜市はその歴史を引き継ぐもので、それはそれはにぎやか。決して観光客向けに作られたものではなく、地元の人たちもたくさんいて、評判のよい屋台には長い行列ができていました。その熱気に包まれるだけでも、旅気分が盛り上がります。中国のほかの都市でここまで夜市が発達しているところはなかなかないので、大いに楽しみました。

二つの相国寺の歴史を改めて紐解くと、いろいろな発見がありました。開封の大相国寺を訪れた際には、ぜひ夜市のにぎわいも楽しんでみてください。京都の相国寺を訪れた際には、そこから徒歩ですぐの今出川ショールームにもぜひお越しくださいませ。

相国寺
https://www.shokoku-ji.jp/
今出川ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/imadegawa.html

参考資料
https://www.shokoku-ji.jp
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-034.html
https://baike.baidu.com/item/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E5%9B%BD%E5%AF%BA/166309
https://baike.baidu.com/item/%E5%BC%80%E5%B0%81%E5%A4%9C%E5%B8%82/8390288