2024年03月

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【澤の露】

小樽には名物・銘菓がたくさんありますが、「澤の露(さわのつゆ)」もその一つ。小樽市の花園にある澤の露本舗は、明治44年創業の老舗菓子店です。売っている商品は、澤の露という飴のみ。ただただシンプルな飴なのですが、これがとても美しいのです。

「水晶あめ玉」とも呼ばれ愛されるこの飴は、水晶のような透明感と黄金色の輝きがあり、眺めているだけでもうっとりしてしまいます。澤の露は、創業当時から現在に至るまでずっと手作りで、材料は砂糖と香り付けのレモンオイルというシンプルなもの。綺麗な黄金色も着色料を使ったものではなく、砂糖を煮詰めた自然な色です。また、一般的な飴の原料にはデンプン由来の水飴が使われることが多く、水飴をベースに味や香りを付けて成形されますが、澤の露は創業当時から変わらず、砂糖のみを煮詰めて成形するという方法を守り続けています。これは、大変高度な技術で、砂糖のみの飴作りを機械化することが難しいため、今でも手作りでこの飴を作り続けているのです。

眺めているだけでも美しく感じるこの飴ですが、味はというと、砂糖の甘みが優しく軽やかにベタつくことなく溶けていきます。ほのかにレモンの香りを感じますが、レモン味というほど強く主張することはなく、爽やかさだけを足してくれています。仕事や勉強で疲れたときの糖分補給にもぴったりです。

澤の露は袋入りや紙箱入り、缶入りのものがあり、小樽のお土産としても喜ばれる一品ではないでしょうか?店舗は小樽駅から徒歩15分ほどで行けるので、小樽散策の際に立ち寄るのも良いですし、小樽駅のお土産物屋さん「タルシェ」でも販売しています。ネットでの購入もできますので、明治の昔から小樽で愛され続けてきた味をぜひお楽しみください。

澤の露本舗
https://otaruame.com/
小樽ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/otaru.html

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【中華せいろで蒸し玉子】

先日の帰省時、山一の中華せいろを愛用している実家の母が、せいろで蒸し玉子を作ってくれました。蕎麦猪口に玉子を割り入れ、湯気の上がったせいろで好みの固さになるまで蒸すのだそうです。私は綺麗に洗った玉子を殻ごとせいろに入れて蒸していたため、蒸し上がりの固さはその時々によってまちまちだったのですが、なるほどこれなら見た目で大体判断できるので、私も真似してみよう!と思った次第でした。

使用する容器は蕎麦猪口でなくても、お手持ちの食器で少し深さがあるものでしたら何でも大丈夫です。蒸した玉子は白身がプルプル、煮玉子とはちょっと違った食感も楽しめます。私は塩麹を少しつけて食べるのが好きです。空いたスペースでほかの野菜も蒸すことができるので、忙しいときの時短にもなりますね。

せいろの良いところは、シンプルな調理法で食材をおいしく仕上げられ、野菜をたっぷり食べられること。野菜本来の甘さがしっかりと感じられるというご感想も多く、購入された皆さんが楽しんで調理されている姿を思い浮かべると、私たちもとても嬉しく思います。

大人気の山一の中華せいろは、蒸し野菜をはじめ、肉まん、シュウマイ、茶碗蒸し、お赤飯、マーラーカオと、幅広くお使いいただけます。煮る、焼く、炒めるといったいつもの調理法に、ぜひ「蒸す」も加えてみてください。料理の幅がぐんと広がること間違いなしです。

山一 中華せいろ
https://www.shokunin.com/jp/yamaichi/seiro.html
青龍窯 蕎麦猪口
https://www.shokunin.com/jp/seiryu/soba.html
中村銅器製作所 段付き鍋
https://www.shokunin.com/jp/nakamuradouki/seiro.html

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【佐藤慶太郎】

高塔山の麓にある佐藤公園には、若松の街を静かに見つめる一体の胸像があります。「石炭の神様」と呼ばれた若松の石炭商・佐藤慶太郎の像です。佐藤公園は、彼が自宅のあったこの場所を当時の若松市に寄付し、公園として整備されました。佐藤慶太郎は明治元年(1868年)、現在の北九州市八幡西区陣原で生まれます。家は貧しかったようですが、勉強が好きだった彼は親戚からの支援を受け、福岡県立英語専修修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に入学。すべての授業が英語で開講されたため、それまで英語を勉強したことのなかった慶太郎は大変苦労したそうですが、熱心に勉学に励み、その後明治法律学校(現・明治大学)へと進学します。しかし、病気がちで体が弱かったことから、卒業後そのまま東京で就職という望みは叶わず故郷へと戻ってきます。

帰郷した慶太郎は若松の山本周太郎商店という石炭商のもとで働き、店主の義妹である俊子と結婚します。俊子から簿記などの商売の基本や石炭商の仕事について教わりました。慶太郎は結婚した時俊子に、「楽をしようとは思わない。給料は生活費のみでいい。信用という無形の財産を得て独立したい。お前さえ信じてくれれば必ず大成してみせる」と約束したそうです。実際に採掘現場に行き、熱心に石炭の研究を重ね、見ただけでどの炭鉱で採掘された石炭か分かるようにまでなります。その後、佐藤商店として独立。裏表のない正直な人間性で取引先からも信用を集め、「若松の佐藤なら」という言葉も生まれるほど石炭商としての成功を収めました。しかしながら、胃腸が弱く体が弱いことはなかなか改善せず、医師からは事業継続か、命かと選択を迫られます。ちょうどそのころアメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの伝記を読んだ慶太郎は、「富んだまま死ぬのは不名誉なことだ(The man who dies rich, dies disgraced)」という言葉に感銘を受け、石炭商として築いた莫大な資産を寄付などに充て、社会奉仕のために残りの人生を生きることを誓いました。

慶太郎の慈善事業の代表的なものの一つが日本初の美術館である東京府美術館(現・東京都美術館)の建設です。東京の宿で偶然、新聞『時事新報』の「西洋諸国の大都市には常設の美術館があるが、日本にはなく、これは西洋諸国に遅れをとるばかりでなく、美術の奨励をしなければ工芸品の輸出も衰退する。心ある人の寄付金を募り美術館を建てたい」という社説を目にし、即座に東京府知事に建設費100万円(現在の約33億円)の寄付を申し出ます。これにより日本の美術関係者たちの長年の夢が実現し、今日の日本美術界の発展に大きく寄与しました。現在の東京都美術館には「佐藤慶太郎アートラウンジ」という休憩スペースがあり、そこには慶太郎の功績に敬意を表し、胸像が設置されています。また、先月惜しまれながら休業した「山の上ホテル」のニュースが記憶に新しいかと思いますが、この山の上ホテルの建物ももともとは「佐藤新興生活館本部ビル」として建設されました。長年の胃腸病に悩まされた慶太郎が食生活の重要性と日本人の健康促進のため、このビルに生活訓練所を設け、女子教育に取り組みました。その後も慶太郎は生涯にわたり、病院、教育機関、公共施設などへの寄付を続け、その信念を最後まで貫き通しました。

石炭の積出港として日本の近代化を支えた若松は、日本に経済発展という物質的な豊かさをもたらしました。それと同時に、若松で生きた佐藤慶太郎をはじめとする多くの石炭商たちによる寄付や慈善事業は、生活や文化、芸術の発展といった精神的な豊かさをもたらし、今も日本各地でその志は生き続けています。佐藤慶太郎の生き方や生涯貫いた信念から、後世に生きる私たちも学ぶべきことが多くあるような気がします。

佐藤公園
https://maps.app.goo.gl/wbQyBuAua3fRJhCW6
若松ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/wakamatsu.html
山の上ホテルの記事
https://jp.shokunin.com/archives/52019381.html

参考資料
https://www.tobikan.jp/media/pdf/h24/booklet_sato_keitaro.pdf
https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/digibook/kitakyushu/017/HTML5/pc.html#/page/1
https://www.tobikan.jp/guide/artlounge.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%85%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E