2023年06月

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【蕎麦】

暑くなると、冷た~い蕎麦を食べたくなりませんか?麺の蕎麦とは、本来は包丁で細長く切られたものである「蕎麦切り」のこと。蕎麦は中国南部が原産とされ、縄文時代に伝来しました。当時は蕎麦の実を粥にして食していましたが、鎌倉時代に中国から臼と挽き石が伝わり、蕎麦の粉を用いた食文化が発展。これによって、蕎麦がき、蕎麦切りへと広がっていきました。

江戸時代までは、蕎麦粉だけで作られた麺を茹でると切れやすかったため、せいろで蒸して作られていました。冷たい蕎麦をせいろやざるに盛っているのは、その名残ですね。江戸中期になると、「二八蕎麦(蕎麦粉8割、小麦粉2割)」で茹でるようになりました。また、この時期には醤油が庶民にまで普及。それ以前は、味噌に水を加えた味噌だれで蕎麦を食べていたようです。

小麦粉のタンパク質は水を加えるとグルテンを形成し、粘りが生じます。一方、蕎麦のタンパク質はグルテンを形成できず、粘りが出にくいため、技術が必要になります。新潟のへぎ蕎麦では、小麦に代わって山芋や玉子、そして布海苔という海藻をつなぎとして使用することで、地域独特の郷土蕎麦が生まれました。

江戸前の蕎麦の代表的なスタイルとして、「砂場そば」、「更科そば」、「藪そば」という3つの蕎麦があります。最も古い「砂場そば」は、細く打たれた白い麺と甘めの濃いつゆが特徴です。砂場そばの名前の由来は、かつて大坂城築城のための資材置き場であった砂場近くに蕎麦店があったことに由来するといわれていますが、現在大阪には砂場の暖簾を引き継ぐ店は残っていないそうです。

「更科そば」は白く透明感のある麺です。江戸時代、長野県の更級村からやってきた蕎麦職人が、武家屋敷の保科家にお世話になりながら江戸で蕎麦を広めました。そこで、「更級村」と「保科家」のそれぞれ一文字を取って「更科そば」と名付けられたのです。

そして、「藪そば」は、蕎麦の実の甘皮がついたまま挽いたそば粉を使用した、薄く緑がかった蕎麦。醤油の味が強く塩辛いつゆが特徴です。そこで、江戸風の「つゆをちょっとだけ漬けて食べる」という食べ方が定着しました。藪そばという名前の起源については、東京・根津の団子坂にあった「蔦屋」という蕎麦屋が藪に囲まれていたことから、「やぶそば」という俗称で土地の人から呼ばれるようになったことからとされています。

蕎麦にはビタミンB1やB2、疲労回復や集中力を高める働きがある必須アミノ酸リジン、血管強化作用や抗酸化作用があるポリフェノールの一種であるルチンなど、健康に良い成分が豊富に含まれています。江戸時代には、玄米から精製した白米が普及し、「脚気」と呼ばれる病気がより一般的になりました。しかし、白米の代わりにビタミンB1を含む蕎麦を食べると「江戸わずらい」といわれた「脚気」が治ることが経験的に分かり、江戸で蕎麦が流行したとも考えられています。

最後に、長野に行くときによく立ち寄る、松本駅ビル内の蕎麦屋「信州松本手打そば・天ぷら いいだや」をご紹介します。この地域の蕎麦は細くて短い麺で、爽やかな喉ごしと冷たさが特徴です。このお店では、山芋粉を練り込んだ手打ちそばが提供されていて、私はこちらの信州ならではのくるみだれそばをいつも楽しみにしています。さまざまな地域で、いろいろな種類の蕎麦を食べてみたいですね。

青龍窯 蕎麦セット
https://www.shokunin.com/jp/seiryu/soba.html
信州松本手打そば・天ぷら いいだや
https://www.matsumoto-teuchisoba.com/

参考資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/蕎麦
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/34_20_tokyo.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/砂場_(蕎麦屋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/更科_(蕎麦屋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/藪_(蕎麦屋)
https://www.kusatsu-ritto.shiga.med.or.jp/quizpc/no4.html

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【アアルト自邸】

フィンランドの建築家であるアルヴァ・アアルトと妻のアイノが自宅兼アトリエとして設計し、約40年間にわたり暮らしたアアルト自邸がヘルシンキの閑静な住宅地にあり、現在も見学することができます。

1934年、アアルト夫妻はヘルシンキ中央駅から北西へ5km、ヘルシンキのムンキニエミ地区のリーヒティエ通りに土地を購入し自分たちの住居を設計し始め、1936年に自邸兼アトリエが完成しました。夫妻は自然の素材を使い、実用性にこだわりながらもシンプルなデザインにすることで、モダン建築をソフトに表現しました。また、自宅を自身で設計することでさまざまな素材や工法を試すこともできたのです。アルヴァ・アアルトは1976年に亡くなるまでこの家で暮らし、その後は後妻のエリッサや彼の親族が住んでいました。建造物保護法で守られているこの建物は、現在はアルヴァ・アアルト財団の所有するミュージアムのうちの一つとなっています。1年を通して約1時間のガイド付きツアーで見学することができ、自邸内にはミュージアムショップもあります。

2021年に世田谷美術館で開催された展覧会「アイノとアルヴァ 二人のアアルト フィンランド―建築・デザインの神話」に足を運び、当時いつかフィンランドに行ったら実際にアアルトが住んでいた家を訪れたいという気持ちが高まっていました。そしてフィンランドへ行くことが決まった際、事前にインターネットから予約し、ヘルシンキ中心地からトラムに乗って私は一人アアルト自邸を訪れました。

その日のその時間帯の参加は、私とフィンランドの親子の2組。もっと多いと聞いていたため、参加した回はラッキーだったのかもしれません。ガイドの女性は日本語を話すことができ、2組をそれぞれ日本語とフィンランド語で交互に案内をしてくれました。案内中は日本語で質問をしたり、もう1組を案内している間は自由に家の中を見て回ったり写真を撮ったりして、想像以上に贅沢にゆったりと見学することができました。ツアーはフィンランド語または英語を覚悟していたため、嬉しい驚きでした。

道路側から見たこの建物は閉鎖的で質素にデザインされていますが、室内は開放的で大きな窓からはやわらかい光と緑が。窓に面した真っ白なアアルトのデスクにはしばらく目を奪われました。仕事場とプライベート空間は、使用する素材を変えることで差別化されています。リビングルームとアトリエは大きな引き戸で仕切られており、窓にはなんとすだれ。ガイドの方が、これらはフィンランドでは一般的ではなく、日本に影響を受けていると教えてくれました。アルヴァ・アアルトは日本に訪れたことこそなかったものの、日本の建築に興味を持ち、北欧の地でも日本人である私が親しみや安心感を感じられるような要素が家のあちこちに散りばめられていました。

この場所を一度訪れたら、日本に帰ってきてからも街なかでアアルトデザイン家具を見かけるたびに北欧の空気や光、あの空間を思い出すことでしょう。見学の際は、ご予約をお忘れなく。

アアルト自邸
https://visit.alvaraalto.fi/jp/訪問先/アアルト自邸/