2023年05月

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【琵琶湖疏水】

幕末の京都は、禁門の変で市中の多くが焼け、さらに東京遷都によって人口は減少し、それまでの活力を失いつつありました。そこで、第3代京都府知事の北垣国道は、京都の人々にとって長年の夢であった琵琶湖疏水の建設を計画し、京都の復興を図りました。灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とし、疎水の水力で新たな工場を作り、船で物資の往来を盛んにしようという計画です。

当初の予算は60万円でしたが、最終的にはその倍の125万円という莫大な工事費を要する大事業となります。技術者たちは、最新の技術や知識を学んだ若者たちが抜擢されました。主任技術者には、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎(当時21歳)が、測量技師には、欧米の測量術を学んで実績を積んでいた島田道生(当時33歳)が選ばれました。

明治18年に着工し、明治23年には第1疎水のうち大津から鴨川合流点までが完成し、そこから伏見までは明治27年に完成。工事は延べ400万人の作業員を動員し、過酷を極めます。特に、大津と山科の間にある第1トンネルは全長2436mもあり、最大の難関として警戒されていましたが、山の上から垂直に穴を掘り、そこから山の両側に向けて工事を進めていくシャフト方式が日本で初めて採用され、無事に開通しました。このころの日本では、大規模な土木工事は外国人技師の指揮の下で行われるのが普通ですが、第1疎水の建設工事は、設計から施工まですべて日本人の手で行った最初の事例でした。

第1疎水の完成によって人々の生活は変化し、中でも当時の最新技術であった水力発電は、その電力により中小工場の機械化が進んだり、電気鉄道の営業が開始したりと、京都の経済や産業の発展に大きく貢献しました。疎水は水車の動力に用いる計画でしたが、アメリカの水力発電を視察した田邉朔郎らの提言により、工事の途中で水力発電へと計画が変更され、蹴上発電所が建設されるに至ったのです。船を往来させるための蹴上インクラインもその電力によるものです。

その後、明治20年代後半になると、電力の需要は年々増加し、第1疎水だけではまかないきれなくなり、また、伝染病が流行し地下水の質が問題となったため、京都市は第2疎水の建設に踏み切りました。京都市三大事業の一つとして進められ、明治41年に着工、明治45年に完成。この第2疎水は汚染を防ぐために、全線トンネルと埋立水路になっており、蹴上で第1疎水に合流します。この水資源を上水道として利用するため蹴上浄水場が完成し、人々の生活基盤となりました。

また、蹴上インクラインや南禅寺水路閣、疏水分線である哲学の道などは京都の名所となり、文化的な景観をもたらしました。これらは先人の努力を今に伝える重要な遺産でもあります。琵琶湖疏水は京都のまちづくりに欠かすことのできない存在であり、これからも私たちの生活を潤し続けてくれることでしょう。

ショールームのご案内
https://www.shokunin.com/jp/showroom/

参考資料
https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000007153.html
https://biwakososui.city.kyoto.lg.jp/story/
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/琵琶湖疏水

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【木屋の爪切りが再入荷いたしました】

1987年の発売以来、理美容カテゴリーでトップの販売量を誇る木屋の爪切りです。小は携帯用に便利なオリジナルサイズで、2003年に発売された大は固い足の爪を切るときにも楽に切れます。いずれもやすりと取り外し可能な爪飛散防止カバー付きです。

木屋 爪切り
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【銀座の喫茶店】

銀座には、老舗の昭和でレトロな喫茶店がたくさんあります。銀座の有名な喫茶店は、どこに行ってもいつも人が並んでいます。

日本最古の本格的な喫茶店は、1888年(明治21年)開業の東京・上野の「可否茶館」だそうですが、日本初のカフェは1911年(明治44年)に開業した銀座の「カフェー・プランタン」。同じ年に銀座で相次いで「カフェー・ライオン」、「カフェー・パウリスタ」が開業し、人気を博しました。それぞれに個性を持ち、西洋の香りを漂わせた喫茶店をご紹介します。

「カフェー・プランタン」は、洋行帰りの画家・松山省三がパリのカフェの雰囲気を再現しようと、文化人や芸術家が集うサロンを目指し開業した日本初の会員制のカフェでした。本場パリのカフェではギャルソンと呼ばれる男性が給仕をするのに対し、「カフェー・プランタン」では女性の給仕を置きました。コーヒーや洋酒、料理もソーセージやマカロニグラタンなどの当時はまだ珍しい洋食を提供し、焼きサンドイッチなどの名物メニューも誕生しました。会員には洋画家の黒田清輝、森鷗外や北原白秋、永井荷風、谷崎潤一郎、高村光太郎といった文学者、市川左團次ら歌舞伎役者などが名を連ねていました。

「カフェー・ライオン」は、洋食と洋酒が中心の食事のできる喫茶店で、ビールが一定量売れるとライオン像が吠える仕掛けになっていたそうです。接客は若い女給(ウェイトレス)が和服にエプロン姿で、それがメイドカフェの始まりであるとの見方もされているようです。現在はビアホールの「銀座ライオン」になっています。店名のライオンは、築地精養軒(上野精養軒の前身)の経営者・北村宇平がロンドンを訪れた際、ピカデリーサーカスのレストラン「ライオン」が気に入り、あやかったものだそうです。

最後の「カフェー・パウリスタ」は、110年以上続く現存する日本最古の喫茶店の一つです。1686年に創業したフランスはパリ最古のカフェ「ル・プロコープ(Le Procope)」を見習い、男性給仕のみが接客を行う正統派な喫茶店でした。「カフェー・パウリスタ」は、ブラジルに渡った日本人移民が作るコーヒーを、ブラジル政府から無償提供を受けてコーヒーを安く提供する庶民的な喫茶店として人気を博したそうです。常連客には文学者の芥川龍之介、菊池寛、与謝野晶子、女性解放運動家の平塚らいてうなど多くの文化人や、大正時代に西洋文化の影響を受けた先端的な若い男女のモボモガたちに愛されました。芥川龍之介の小説には「カッフェ・パウリスタ」の文字が出てきます。

『彼 第二』(著:芥川龍之介)
僕等は金かねの面をしてはカッフェやお茶屋へ出入した。彼は僕よりも三割がた雄の特性を具えていた。ある粉雪の烈しい夜、僕等はカッフェ・パウリスタの隅のテエブルに坐っていた。その頃のカッフェ・パウリスタは中央にグラノフォンが一台あり、白銅を一つ入れさえすれば音楽の聞かれる設備になっていた。その夜もグラノフォンは僕等の話にほとんど伴奏を絶ったことはなかった。
「ちょっとあの給仕に通訳してくれ給え。――誰でも五銭出す度に僕はきっと十銭出すから、グラノフォンの鳴るのをやめさせてくれって。」
「そんなことは頼まれないよ。第一他人の聞きたがっている音楽を銭ずくでやめさせるのは悪趣味じゃないか?」
「それじゃ他人の聞きたがらない音楽を金ずくで聞かせるのも悪趣味だよ。」

ちなみにパリ最古のカフェ「ル・プロコープ(Le Procope)」も歴史に名を残す著名人が集っていました。ナポレオン・ボナパルト、ジャン・ジャック・ルソー、ロベスピエール、ヴィクトル・ユゴーなど、そうそうたる顔ぶれです。

関東大震災のあとごろになるとカフェーは急増し、その中には女給のサービスを主体とした店も多く見られるようになりました。昭和に入り風俗的な意味合いが規制の対象となり、アルコールと女給のサービスを提供する風俗営業的な「カフェー」と、コーヒーや軽食を提供する「喫茶店(純喫茶)」と区別するようになり、「カフェー」は現在はバーやクラブなどと称するように変わりました。

ハイカラな銀座の文化発展の場所だった喫茶店、今では世界最大のカフェ・チェーンとなった「スターバックスコーヒー」が北米以外の初の店舗として、1996年に銀座に1号店をオープンしました。

銀座にはレトロモダンな老舗の喫茶店が多くあります。音楽喫茶だったという「銀座ウエスト 銀座本店」に先日行ってきました。1947年(昭和22年)創業の昭和感の漂うクラシカルで上品な喫茶店です。リーフパイが代表的なお菓子の一つで、原材料の徹底したこだわりと原材料の持ち味を生かすために人工の香料や色素などはできるかぎり使用せず、すべて職人の手作業による成形で作られているのだそうです。

銀座にいらした際には、銀座の喫茶をどうぞ楽しんでみてください。

銀座ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/ginza.html

参考資料
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本における喫茶店の歴史
https://ja.wikipedia.org/wiki/カフェー・プランタン
https://ja.wikipedia.org/wiki/カフェー・ライオン
https://ja.wikipedia.org/wiki/カフェーパウリスタ
https://ja.wikipedia.org/wiki/カフェ・プロコップ
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/71_15180.html
https://www.ginza-west.co.jp/
https://www.ginza.jp/column/8346