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【二つの相国寺】

今出川ショールームから徒歩で東へ15分、京都御苑の北側に、臨済宗相国寺派の大本山「相国寺」があります。相国寺は、14世紀末、室町幕府三代将軍の足利義満により創建されました。その境内は、法堂、方丈、庫裡、開山堂、勅使門、総門、浴室、鐘楼、蔵経塔、弁天社などから成りますが、創建後、たびたび火災に遭っており、創建当時のものは残っていません。とはいえ、1605年に豊臣秀頼の寄進により再建された法堂は、日本最古の法堂建築として今に伝わり、また、桃山時代にできた禅宗様建築としては、最大最優秀作といわれています。法堂は松林に囲まれ、その威風堂々たる伽藍建築は重要文化財に指定されています。12月初頭に訪れてみると、まだ境内の紅葉が法堂の荘厳さに色を添えている様を眺めることができました。

法堂内部は、限られた期間しか公開されていませんが、正面に高い階段を三方に備えた須弥壇があり、須弥壇の中央には本尊釈迦如来、脇持は向かって左に阿難尊者、右に迦葉尊者の像が祀られています。天井には、鳴き龍の名で有名な蟠龍図があります。1605年に相国寺の法堂が再建された際、狩野光信によって画かれたこの図は、円相内にその全容がくっきりと描き出され、彩色も美しいままに残っています。

相国寺境内には、十二の塔頭寺院がありますが、京都を訪れる観光客にもよく名の知れた金閣寺・銀閣寺も共に、相国寺の山外塔頭寺院であることは、意外に知られていないのではないでしょうか。金閣寺が足利義満によって創建されたことは広く知られていると思いますが、実は相国寺とほぼ時を同じくして創建されたのです。銀閣寺のほうはその後年、室町幕府八代将軍である足利義政により創建されています。いずれも、足利歴代将軍が創建した禅宗寺院として、本山である相国寺の塔頭寺院となり今に至っています。さらに、法堂正面に向かって左脇の「天響楼」と呼ばれる鐘楼があり、そこに「友好記念碑」も立っており、そのそばの看板に以下のように書かれていることも、あまり知られていないかもしれません。

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日中両相国寺友好記念の碑と天響楼

 日本の相国寺は、明徳三年(一三九二)に開山夢窓国師、開基足利義満公により創建され、正式名称を萬年山相国承天禅寺という。寺号由来の一つに義満公が禅の師匠である春屋妙葩禅師(相国寺第二世)に、新しい寺の名称を相談したところ「現在あなたは左大臣の位にあり中国ではこれを相国といいます。相国寺とつけては如何か」また「中国の開封に大相国寺(唐・延和元年七一二)という寺があり、まさに格好の名前ではないか」と進言したことによる。
 時は流れ平成四年(一九九二)十一月、開封大相国寺の本尊開眼、真禅住職晋山式に参列するため、当時の梶谷宗忍相国寺派管長を団長に訪中、併せて日中両相国寺友好寺院の締結調印が行われた。このことは日中の佛教寺院交流史上初のことである。
 平成六年(一九九四)に友好を謳った記念の石碑が日中両相国寺境内に建立された。石碑はインド産黒御影石で当時の梶谷管長及び趙撲初中国仏教協会会長の書で碑文が刻まれた。
 平成二十三年(二〇一一)八月中国大相国寺(釋心廣住職)より、梵鐘が日本相国寺(有馬頼底住職)へ寄進された。鐘楼は天響楼と名付けられ日中両相国寺の未来永劫にわたる友好の証しとして現在に至っている。
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私はその河南省・開封に旅し、中国の「大相国寺」も訪れたことがあります。開封は、古くは「汴京」と呼ばれ、中国の歴史上、何度も首都が置かれた古都です。最後に首都となった北宋の時代には、黄河中流域の華北と、長江流域の江南を結ぶ大運河の拠点の一つとして各地の物資が集散するようになり、栄華を極めました。その繁栄ぶりは、書物『東京夢華録』や絵画『清明上河図』に描かれています。大相国寺は、6世紀の北斉の時代に創建され、当時は「建国寺」という名称でした。8世紀の唐代に睿宗によって「相国寺」と改名、その後、睿宗が玄宗に譲位して太上皇帝となったことを記念し、「大相国寺」という名が与えられました。開封が北宋の首都として繁栄すると同時に、大相国寺も次々と拡張され、北宋最大の寺院として皇帝の手厚い庇護を受けていました。しかしながら、12世紀に北宋が金に滅ぼされて開封が衰退し始めると、大相国寺もまた荒廃していくことになります。大相国寺は、明清の時代に幾度か修復されたものの、黄河の氾濫に遭うなどにより、衰退は免れませんでした。時は下り、20世紀になってから本格的な修復が進められていき、1992年、ついに本尊が開眼、仏事が再開することになりました。京都の相国寺は、その際に訪中団を派遣し、大相国寺との間で友好寺院の締結を行ったのです。

現在の大相国寺は、明清時代の建築様式を伝えるもので、大門、天王殿、大雄宝殿、八角瑠璃殿、蔵経楼等から成ります。主殿の大雄宝殿は、清代の順治帝の時代に再建されたもので、内部には、高さ4.3mの釈迦牟尼像が安置されています。また、八角瑠璃殿の内部には、高さ7mの四面千手千眼観音像が安置されています。私が開封の大相国寺を訪れたのは10月で、ちょうど開封の街全体で菊祭が開催されており、大相国寺の境内にも、丁寧に手入れされた菊が所狭しと飾られ、寺院建築に落ち着いた華やぎを添えながら、多くの参拝客の目を楽しませていました。そしてその境内には、京都の相国寺の境内に立っているものと同じ「友好記念碑」が静かに立っていました。日本との縁はそれだけではなく、遣唐使として中国に渡った空海が一時期、大相国寺に滞在したといわれており、それを記念して、境内の大師堂に、空海の銅像も建てられています。

現在の開封の街は、北宋時代の栄華はあまり感じられませんが、それでも、当時から続く街の活気を味わえる場所があります。それは夜市です。北宋より前の時代には、商売は官営で、同業組合によって厳しく管理されていたところ、北宋の時代には、商売の自由化が進み、その結果、夜市も盛んに開かれるようになりました。現在の夜市はその歴史を引き継ぐもので、それはそれはにぎやか。決して観光客向けに作られたものではなく、地元の人たちもたくさんいて、評判のよい屋台には長い行列ができていました。その熱気に包まれるだけでも、旅気分が盛り上がります。中国のほかの都市でここまで夜市が発達しているところはなかなかないので、大いに楽しみました。

二つの相国寺の歴史を改めて紐解くと、いろいろな発見がありました。開封の大相国寺を訪れた際には、ぜひ夜市のにぎわいも楽しんでみてください。京都の相国寺を訪れた際には、そこから徒歩ですぐの今出川ショールームにもぜひお越しくださいませ。

相国寺
https://www.shokoku-ji.jp/
今出川ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/imadegawa.html

参考資料
https://www.shokoku-ji.jp
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-034.html
https://baike.baidu.com/item/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E5%9B%BD%E5%AF%BA/166309
https://baike.baidu.com/item/%E5%BC%80%E5%B0%81%E5%A4%9C%E5%B8%82/8390288

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【小樽中央市場と梁川商店街】

戦後まもない1946年(昭和21年)、小樽の街に新しい生活の拠点が生まれました。それが「小樽中央市場」です。満州など外地からの引揚者たちが生活の糧を求め、地元の有志と協力しながら、バラック造りの仮設店舗で始めたこの市場は、戦後の混乱期に人々の暮らしを支える大切な場所でした。

しかし、都市計画の一環として立ち退きの危機に直面した際、当時の組合会長・秋田民武氏が市長に直訴し、市民生活に不可欠な市場として存続が認められます。この決断が小樽中央市場の歴史を大きく動かしました。1953年(昭和28年)、鉄筋コンクリート造りの第1棟が完成し、翌年には第2棟、1956年(昭和31年)には第3棟が立ち並びました。当時としては近代的な市場で、北海道全体から注目を集める存在となります。

そして市場の発展を支えたのは、小樽港と鉄道を結ぶ旧手宮線です。小樽港は北海道の玄関口として、ニシンやカレイ、ホッケなどの海産物が水揚げされる拠点として栄えていました。その魚介類や物資を市場へ運ぶため、旧手宮線は港から手宮駅を経由し幹線鉄道へとつながる重要な物流ルートを担っていたのです。この鉄路があったからこそ、小樽中央市場は北海道の食文化を広げる拠点となりました。

物流の動脈を活用したのが「ガンガン部隊」と呼ばれる女性行商人たちです。彼女たちは市場で仕入れた鮮魚や野菜をブリキ製の缶に詰め、背負って鉄道に乗り込み、空知や富良野、岩見沢などの内陸部へと運びました。缶の重さは20kgを超えることもあり、肩に食い込む痛みに耐えながら、毎日のように産炭地の家庭を支えたのです。昭和30年代にはその勢いが最盛期を迎え、国鉄が「行商指定車」という専用車両を設けるほどでした。彼女たちの姿は、戦後の北海道における女性の生活力とたくましさを象徴する存在であり、北海道の暮らしを支えた歴史の証人です。

1965年(昭和40年)、小樽中央市場は最盛期を迎え、多くの人々でにぎわいました。しかし、時代の流れとともにスーパーマーケットの普及や人口減少により、活気はしだいに薄れていきます。それでも市場はあきらめません。空き店舗を活用したカフェやギャラリーの導入、イベント開催など、新しい試みを重ねながら再生への道を歩んでいます。現在の小樽中央市場は、鮮魚店や青果店、カフェが並び、地元の人々と観光客が交差する空間です。旬の海産物を味わえる食堂や、昔ながらの惣菜店、そして市場ならではの温かい人情。スーパーマーケットでは味わえない「顔の見える買い物」が大切に残されています。

小樽中央市場のある「梁川(やながわ)商店街」もまた、歴史を刻む通りです。その名の由来は、明治期の政治家・榎本武揚氏の号「梁川(りょうせん)」にあります。榎本氏は小樽の天然の良港に着目し、将来必ず貿易と文化の拠点になると確信して市街地開発を進めました。その確信は現実となり、明治から昭和初期までの約70年間、小樽は北海道経済の中心として黄金時代を築きます。梁川商店街は昭和初期から戦後にかけて商人や職人でにぎわい、生活を支える商業拠点でした。しかし昭和後期から平成にかけて大型店の進出などにより衰退の危機に直面します。それでも地元の商店主たちは、昔ながらの店を守りながら、空きテナントの再活用やマーケットの開催など新しい風を取り込みました。

小樽中央市場で旬の食材を手にし、梁川商店街で一休みし、旧手宮線に足を止めて物流と暮らしが交錯した時代へ思いを馳せる、そんな散策は小樽ならではの旅の醍醐味です。市場で味わう新鮮な海の幸、商店街で見つける昭和レトロな看板や石造りの建物、そして線路跡に残る歴史の記憶。異なる来歴を抱えながら地域に深く根を張る二つの商業エリアは、小樽の街の生活と文化を映す鏡として、この先も粘り強くその魅力を発信し続けるでしょう。

小樽ショールーム
https://www.shokunin.com/jp/showroom/otaru.html
小樽中央市場
https://otaru-market.com/
小樽 梁川商店街
http://yanagawa-st.com/

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【帯広の豚丼】

帯広の名物「豚丼」のルーツは、明治時代の開拓期にまで遡ります。1883年に依田勉三率いる「晩成社」が十勝に入植した際、4頭の豚を連れてきたことが養豚の始まりでした。

当時の過酷な環境において、「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」という言葉が残るほど、豚は開拓者たちの生活に密着した存在でした。厳しい労働に従事する人々にとって、手軽に調達できる豚肉は、力をつけるための貴重な栄養源として重宝されていたのです。

その後、明治末期から大正時代にかけて養豚業はさらに拡大し、大正末期には豚肉食が一般的になりつつありました。十勝地方で養豚が盛んに行われていたことから、豚肉は地域の人々にとって身近で手に入りやすい食材として定着していきます。

この豚肉を独自の料理として完成させたのが、1933年に帯広で創業した食堂「ぱんちょう」の阿部秀司です。彼は、鰻が高級で入手困難だったため、鰻丼をヒントに、身近な豚肉を炭火で焼いて甘辛い醤油だれを絡める「豚丼」を考案しました。

「ぱんちょう」から始まった豚丼は、その後、砂糖や醤油といった家庭にある基本調味料で作れるシンプルさから、十勝地方の一般家庭へ「家庭の味」として深く浸透していきました。

肉はロースやバラの厚切りが本格的ですが、薄切り肉でもおいしく作れます。調理前には、豚肉の筋切りをしておくことで、焼いたときに肉が縮んだり反り返ったりするのを防ぐことができます。最大のコツはたれの煮詰め方にあります。まず砂糖、酒、みりんを火にかけ、カラメル状になって香ばしい匂いがするまで煮詰めてから、仕上げに醤油を加えることで、風味を飛ばさずに深いコクと照りを出せます。

今日、帯広の豚丼は北海道を代表するご当地グルメとして全国的に知られています。その親しみやすさは、北海道を拠点とするコンビニエンスストアのセイコーマートでも、店内調理(ホットシェフ)のメニューとして販売されているほどです。

北の大地の開拓者たちの知恵が詰まった帯広の豚丼。鰻の代用品として始まった工夫が、今や独自の食文化として力強く根を張っています。

一陽窯 麺鉢
https://www.shokunin.com/jp/ichiyou/menbachi.html
青龍窯 どんぶり碗
https://www.shokunin.com/jp/seiryu/donburi.html

参考資料
https://hokkaidofan.com/foods_butadon/
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/butadon_hokkaido.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%9A%E4%B8%BC
https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/niwanomomo/2023-00828 (レシピ)